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2008年5月29日 00:01

アマデウス。

映画を観た。アマデウス。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。アマデウスはそのミドルネーム。すなわち、この映画は、若くして没したモーツァルトの後半の人生を描く。ウィーンに住まうようになってからの半生。

この映画、1984年に大ヒットしたらしい。私は1973生まれだから、映画を見る環境も知性も財力も持ち合わせていない頃のもの(大袈裟)。四十代くらいの方ならば、あーあの映画ね、となるのかもしれないが、私にとっては新鮮である。映画華やかなりし頃の作品をリアルタイムにしていない年代の私にとっては、これから初々しく楽しめる作品も多いわけで、それはそれで良いことである。

さて、史実はともかくとして、映画の筋は、ウィーンハプスブルグ家の宮廷音楽家サリオリが、ウィーンに降り立った見紛うことの無い天才、モーツァルトを追憶の中で語るというその語りが、映像となって展開される。

時折宮廷と接触するモーツァルトが、結局のところ宮廷に就職することが適わず、街の音楽家として種々の食い扶持をつないで貧しく生き、反面サリオリは宮廷音楽家としての地位を保存しつづけるのであるが、、、そのサリオリ自身が誰よりも、モーツァルトの才能に気づき、共鳴し、それを畏怖し、打ちのめされ苦しむのである。そう、宮廷にふさわしいのはモーツァルトであると。サリオリは皮肉なことに、自己は才能を持たぬが、才能を見定める能力に人一倍秀でていたのである、、、

この映画の命題は、才能、天賦の才である。

世の中には、天賦の才を持つものがいる。
才能を持たぬが、天賦の才を見定めるものがいる。
そして大多数の、一切を持たざるものがいる。

「才能などなくてもおよそのことはできる」
こういう、これまた命題がある。
嘘ではない。「およそ」のこと、その意味内容はそのものがよって立つ社会によって変わる。日本であれば「およそ」職を得て、毎日のご飯を食べ、寝泊りをする宿をもち、生命身体の危険にさらされることのない生活を送ること、その程度はきっとできる。努力をして、選らばざれば、という条件付ではあるが。

しかし「およそ」ではない領域は毅然として在る。その領域を生きるものは時に想定され時に神の配剤によってこの世に生れ落ちる。
人間は決して平等ではない。生まれもって豊かなものや、生まれついた血統があるように、天賦の才は、それらと同じように顕著な仕方で存在するのだ。

アマデウス・モーツァルト。天賦の才を受けたもの。その光は余りにも強く、あまりにも広く世界を照らすので、それに包まれた同時代の人々は、その光の輝きを、異なりを、他の光と分別し見出すことが出来ないのだ。同時代において貧しい天賦の才は、音楽にも、哲学にも、その他にも後代によってよく知られるところである。

才能は才能故に苦しく、
才能を分別するものは、才能を持たないことに苦しみ、
そして全てを持たざるものは、凡庸な生活に苦しむ。

楽しみは、喜びは、それに対応してそれぞれにある。


「結局人間は、喜びも苦しみも総合的に分配を受けているのだから、自分が定められたステージで、それぞれに一所懸命生きるしかないのだ。それしかないし、それでいいのだ。」

この映画は、華やかなオーストリアの宮廷生活や当時の文化をきらびやかに描いて、躍動感をともなって加速度的に物語りを駆動させながら、また才能という鋭利なモチーフを攻撃的に用いながら、実は一遍を通じて、普遍的でゆったりとした大河のごとく、以上ようなメッセージを提出しているように感じた。

2008年5月28日 22:28

やっていける国。

2008年も半ばを向かえ、特にここ数ヶ月、苦しいニュースが飛び込んでくる。

物価高、鉄鋼高、ゴールドマンザックスに係る原油価格予想。
住宅・マンションの販売不振に自動車登録台数の連続減少など、まさに内需の落日か。

八方、いや十方ふさがりのように見える国内経済なのであるが、少し前にどこかのシンクタンクの人間が、識者の問いに対して答えていた(記憶が正確ではないが)。

識者曰く。
「日本は人口減少、内需縮小、エネルギー問題、途上国の団塊的成長、食料、財政、、、いろんな状況勘案するに、もう未来はないんじゃないでしょうかね。方法がないように思うんですが。やっていけないんじゃないでしょうか。」

シンクタンクA曰く。
「こういった状況において、やっていける方法を考えられた国がやっていける国なのでしょう。考えられなかった国はやっていけない国なんでしょう。それだけです。」

やっていける国。

きっと識者は、時代が異なれば、敗戦後の日本に同じ質問をぶつけたに違いない。この状況でどうやってやっていくんだと。あの頃と今、やっていけると答える人間の数はどちらが多いだろう。今という岸壁に立ってある経済学者や社会学者に言わせれば、戦勝先進国の溢れる市場の中に日本だけ地獄から這い上がるという「来た道」のほうが実は環境はよかったのだ、ということになるのか。しかし本当にそうだろうか。難しいことはわからないけれども、意識さえ変更すれば、今スタートのほうが環境はいくらか(ずいぶん)よいと思われるのだが。

やっていける国。やっていける組織。やっていける人。

「現在妙案があるかと言えばもちろんありませんが、それでも考え続けるしかないんです」
シンクタンクAはそう続けていた。

この人はとても頭のいい人だ。

2008年5月19日 22:03

売主確認、田園調布。

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先日不動産取引の登記立会いの前提として、売主の本人性確認、及び意思確認のため神奈川に出向いた。久しぶりの遠方。この際ということで、所用のあった自由が丘と田園調布、それから千葉と、無理をして電車を乗り継いできた。新幹線と併せると一日の大方の時間を乗り物に乗っていた勘定でこれにはやはり疲れた。

そうだ、十年ほど前に父親が出張で全国を飛びまわっていた折、「いやいや乗ってるだけなんだから何がそんなにしんどいか」などとのたまった記憶が恥ずかしく思い出される。人間の馬鹿さ加減は、やはり年とともに幾分ずつ改まっていくものらしい(逆も多いが)。

1 不動産、売主確認
前にも言ったかも知れないが、不動産売買の登記立会いに際し、司法書士は売主が確かに売主であることを確認し、また売主が当該不動産を、確かに目的に沿って処分等する意思があるかどうかを確認する。

不動産という「物」に対して、「人」が有し行使できる権利、これを「物権」というが(民法は世の中を権利と義務の体系として把握する。物に対する権利、人に対する権利義務)、今回は様々ある「物権」のうちの「所有権」という権利を、売主から買主に対価をともなって譲り渡すという契約が確かになされているか。売主は確かにその人か、売買の諸条件に係る意思内容は確かか。

これをこの業界では、不動産取引における「人」「物」「意思」の確認などという。最終奥義のようなものか。別にこんな当たり前のことを標語にして覚えなければならないほど司法書士に馬鹿が多いわけでなく、それほど簡単にして、究極には判断微妙なるものであるということだ。

売主は年配である。そうすると別の心配も生ずる。

しかし今回は全く問題なし。むしろこちらを圧倒する明確な意思。知性。
よって遠方出張の一番の目的をまずもって果たす。

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2 田園調布より
 (1) 田園調布
田園調布を歩いてみた。
この開発の大立者、渋沢栄一のストーリーとともに、歴史を学べば必ず登場する田園調布。

東京にあるという近年のネームバリューを捨象すれば、個人的には六麓荘町のスケールや阪神間の住宅地が抱く海山風の景勝、文化に軍配が上がると信じるが、東京一極集中なんだから仕方がない。田園調布は良いところ、東京はよいところ、らしい。否定はできないが。

維新の激動による上から外からの地殻変動も、阪神間に代表される民間主導の住宅開発も、夢と時代のムードをうねらせて、大きな流れの中に希望の姿を見通していたに違いない。こんなものがあったらいいな、気持ちがいいな、憧れるなという公約数的集約というルールに同意し、街ごとに設定されるおぼろげな目的地へのビークルに自ら乗っかり、そんな自分を正当化して、誇って。

東京や阪神の住宅開発の歴史(明治、大正、昭和のどのくらいまでか)をいろんな資料を通して見ると、今基準で振り返る単なる回顧主義や感傷だけでは決してない、何かロマンティックなものがやはりそこにあるのだ。そうでなければ、土地と、地勢と、気候と、そんな構成要素の異なりだけでは、この狭い日本のいろんな街に、今あるような町ごとの意味づけや、物語を固着させることができたはずはない。誰かが望み、自らも望み、意思し、適度な交流のもとにいつしか輝かしく合一する。

しかしそんなゆっくりとした街の形成も維持できなくなってきたらしい。

こんなものや、こんなものも、維持するのが大変だと。
この街の、この街としての流れを作ったものは老い、ここを、この世を去り、混沌が残されつつあると。

こういったところがそうであるならば、その他の全国的な街づくりが、統制に困難を極めることは相当に理解し易い結論である。

 (2) 自由とか、社会とか
多様化。価値の多様化。多様化の容認。多様化の絶対的尊重。多様化の横暴。
自由の勝利。自由という反撃を許さぬ武器の行使。自由と不安。自由と相対の獲得とランドマークの喪失。

いつの時代を生きる人間も、自分の時代を過大評価し、自分は世界のエッジを生きると錯誤するものである。しかしそういった側面を十二分に考慮してさえ、やはり今という時代は、少なくとも街の風景を作るという一基準点においてすら、変化の先っちょを渡っていると言い得るのだろう。明らかに先を迷っている。

今必要なのは、自由などではなく、多少強引であっても輝ける先導か。先導のもとでの自己決定か。そのバランスの変更か。内容の変更か。ただし、過去とは違った仕方で(その仕方に世界が迷って長い)。

ところで、変化の先っちょを生きるということは、自分たちで矛先の行方を考えること。それは、自分たちで考えな無ければならないのだし、自分たちに考える権限が与えられてもいるということ。否が応に。何が美しい街で、住みよい街で、幸せな社会で、存在価値ある国か。あるいは国は不要か。世界は本当に一つか。

四十代も三十代も二十代も。社会の世知辛さを高らかに謳いあげても、自由という絶対的な武器を振り回しても、それで飯は食えないし、快適にはならないし、幸せにもなれない。今、それがようやく解った。転換点に立って解ったのだ。

原理の、原論の時代がやってくる。日本においては変則的な仕方で獲得した一応の自由のもとに、一から、自分で、世の中をどうするのかを考えるときだ。おせっかいで親切な共同体も、農業と別れて早何年、世話焼きのその基盤を欠いて、早晩意識的な共同体へと変化せざるを得ない。そういった素直な意味内容での原理、原論の時代。屁理屈は通用しない時代。

何も貧困にだけではない。比較的裕福な田園調布にも、パラダイム変更への次の一歩は、苦々しくも強烈に求められているようである。

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2008年5月14日 20:46

ルーブル美術館展他。

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたか?今年は稀に見る晴天続きで、休みがしっかりとれた方にとっては、そしてきっちり計画を立てられていた方にとっては、気持ちよく過ごせたのではないか。少なくとも、気持ちのよい自然環境は整っていた。

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休みの後半に、ルーブル美術館展に出かける。
神戸市立博物館で催されていたもの。

主催は、神戸市立博物館、ルーブル美術館、朝日新聞、朝日放送。
後援は、外務省、文化庁、フランス大使館、BS朝日。

日仏交流150周年を記念して、ルーブル美術館が有する美術工芸品のコレクションのうち、フランス宮廷が最も輝いた18世紀、ロココ(ロカイユ)から新古典主義に至るまでの選りすぐりの140点を紹介するもの。

当たり前だが、間違いなく素晴らしい美術品ばかり。7月までやっているので、観たことがない方はぜひ。ルーブル御大を拝んだことのある方も、ぜひゆっくりと。

さて、行かれる方は、必ずカタログを買われたし。とても充実しています。展示品すべてについての詳解、その他巻末についている三本の論文が秀逸。それから、まさに最後に、ブルボン家、ハプスブルグ家の家計図、及び同時代の関連年表が掲載されているので勉強になる。

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カタログの論文のタイトル。
1 物語を語る
2 ポンパドゥール公爵夫人が宮廷人として必要とした技術と学術
3 マリー=アントワネットと日本

これを読んで唸る、、、

それから、実際に展示を見回っていて、美術品横に掲出された、説明文というのか、解説文というのか、それを読んでも、いちいち唸る、、、

そして、物理的にも心理的にも、しばし立ち止まるのである。

この唸りの根拠は、なるほどと理解、首肯して深く気持ちよい感情から出でたものと、知識教養不足によって完全に切り返されて苦しい気持ちから出たものと、その二種類がある。そして後者が一定積み重なってくると、「勉強しないといかんな」という気持ちにせっつかれて、美術品の鑑賞行為自体にも、苦しさが染み出してくるのだ。

先の論文3 マリー=アントワネットと日本に記されているのは、フランス本国におけるマリー=アントワネット理解(現代変容しつつあるものの)と、日本における同理解には相当の乖離があって、それがどこから来るのかというものだが、結局のところ、日本人は、中学、高校の教科書において欧州の歴史をほとんど学ばないところに起因していると。早速後日本屋にて教科書をめくってみても、やはりフランス革命が「数行程度」で語られている。これでは美術品の背景を理解することなどできない。その数行すらまともに履修しない注意散漫な学生、すなわち自分、いわんや、である。社会人になって、多少の知識を入れたとしても、宮廷の内情までは、、、ねっ。

そんなわけで、まあいいやで済ませればいいのだが、それで良しとしないのが抗えぬ「サガ」であって、これから少しは勉強していきたいと思う。もちろん、宮廷人でもない私は、「そんなこと」ばかりしている訳にもいかないが。

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それから休みの後半には、以下目的に応じて、それぞれの店で食事をする。
いずれも、北野の伝説「ジャンムーラン」の血を引くもの、らしい。

1 事務所の食事会に、心斎橋の「リュミエール」
2 妻との食事会に、北野の「シェ・ローズ」

どちらも素人が評価するなどおこがましい素晴らしいお店だと思われ、よって、素人にも十分に良さが伝わるという点においてだけ、素晴らしいとお薦めしておきたい。

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小泉義之『レヴィナス 何のために生きるのか』(NHK出版)

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内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房)

エマニュエル・レヴィナス。
以前にレヴィナスコレクションを読んで難しかったので、その外堀を埋めるべく、また内から、入り口からの溶解を試みて、周辺の本を読む。

後者はレヴィナスへの敬愛に満ち溢れた書物。敬愛からの自然な成り行きが啓蒙に至らしめたような書。著者はレヴィナスを一方的な師と仰ぐ。そのようなところから出たものだけあって、記述はとても情熱的で、したがって情熱の作用として当然に、読むものをわかった気にさせる効果において卓抜である。おすすめしておく。

前者。レヴィナスのエッセンス。要すると以下のようになる(と思う)。

1 人間は「何のために生きるのか」と問う。この問いは確かに贅沢な発問であるが誠実な問いでもある。
2 これに対して「答えなんかわからない」「答えなんかない」と決めてかかるものがあるがこれは間違いである。答えはある。
3 「何のために生きるのか」と問い人生に疲弊する人間もしかし多くの場合自ら命を絶つことはなく「生きている」「生き続けている」という事実がある。これを厳粛に受け止めなければならぬ。
4 「生き続けている」限りその事実が身をもって問いに答えを提出していることになる。
5 疲弊しながらも生き続けること、人生の意味目的も与えられないようでいながら生き続ける宿命、これは私たちがこの世界に生れ落ちる前に取り結んだ「契約」からやってくるのか。何にしろ生き続けるという「契約」か。
6 そのような生であっても生きることそれ自体は幸福である。あらゆる事物や関係性や実践や、、、すべての構造を「享受」しているからだ。人間の生はすべてを「享受」する。この「享受」はすべて自分のためになされているのであり、これを「人生のエゴイズム」と呼ぶ。
7 そしてその幸福な享受の生それ自体の意味を問うても、「生きるために生きる」という究極を越えることがない。
8 それでは「自分からの逃走」を試みたとして、私たちは現に「この世界」に存在するのであり、「他所」「別の仕方」「他者」に向かう形而上学的欲望に駆動されるだけである。形而上学的欲望は、先に述べた「契約」に呪縛されていることにほかならない。「何のために」生きるのかという「自問自答」「独我論的弁証論」を繰り返すこと、これはまさに「自分のために」生きること以外のものではありえないのである。
9 そんなとき「他者」が、「他者の顔」が、私自身に呼びかけてくる。しばしば社会的弱者と対峙する自分という仕方で、それは現前する。虐げられた貧しい人々に告発され何をなすべきかを考える。自分のために生きる閉鎖空間を打ち破るようにして、他人が問いかけると私は新しい自由と答え方を手にする。他人からの問いに対して他人のためにする答えは、自分の自由と責任を正当化する。
10 ところで私は、自分は、すべてを享受するエゴイストである。事物を破壊し獲物を狩猟し自分のためにすべてを把持する。
11 しかし他人を、獲物のように扱えるか。腹を割き、食べ、捨て、手足を切り裂くことができるか。これを躊躇うのである。回りまわって自分のためにならない、という仕方ではなく、「他人の顔」が私に命令する。「他人の顔」が現前するからだ。
12 そして自分はその命令に従う。殺そうとすれば容易であるにかかわらずそうしない。これが根源的な、先天的な人間の倫理である。先に帰れば、社会的弱者と対峙する自分が、弱者から要求されるのは生存であり、養いあって生存を共有することである。そして他者の要求は、自分の「自由を制限」するのではなく、自分の「善性」を呼び覚ますという仕方で、自分の「自由を増進」させることに働くのである。
13 他者の本質的な悲劇に答えうる自分の資源を発見すること、他者の本質的幸福に応答する自由な自分を発見すること、利己主義を生きることが利他主義を養うこと、人類は養いあう共同体であること、、、すなわち、人間は自分のために、他者のために、そして人類のために生きるのである。
14 しかし人間は死ぬ。とはいえ人間は死ぬ。死とは無か。そうであれば、人類のために生きるのも空しいか。
15 死を単なる終末と捉えるなら、生は空しい。よって、生成と消滅と捉えなおしてみる。生成のためには、消滅が欠くべからざる要件であるような関係。例えば空に浮かぶ雲が消えては生まれ、生まれては消えるような関係。雲が生成消滅する関係が繰り返されることについて神がそうしたのであればそれは必然。生成と消滅は必然。
16 ただそう捉えなおしてみても空しさは消えない。単なる生成と、消滅がそこにあるだけである。無神論的立場からは、空しさはなおさらである。
17 生まれたものが死ぬのは空しい。生まれたものが生き続けたっていいのだから。ではこう考えよう。人間は生まれるのではなく、「生む存在」であるから、すなわち「新しく人生を始めるもの」を自らの力で、「生む存在」であるから、古い人生は終わらせなければならないのだ、と。
18 ここに至り、人間の「繁殖性」に無限の価値を見出す。繁殖性こそ重要である。人間はただ生きて死ぬものではない。生きて死ぬのに加えて生殖するものである。生物としての人間の未来は人間の子供以外ではありえないような仕方で、人間は生きて死ぬのである。
19 「繁殖性を存在論的カテゴリーに昇格させなければならない。(中略)繁殖性なる概念は生物学に由来するが、繁殖性の意義に関する逆説は決して解消されない。むしろ繁殖性なる概念は、生物学の領域を乗り越える構造を素描しているのである。」「生誕と死に挟まれた人生は、狂気でも不条理でも逃避でも弛緩でもない。人生は流れてゆく。人生は人生に固有の次元を流れてゆく。人生が意味をもち、人生の意味が死に対する勝利でありうるような次元を流れてゆくのである。」(レヴィナス)
20 どこかで人間が死に、どこかで生まれる。そんな繁殖性を受肉し、すなわち人間の根源的契約のために生きて、そして死ぬのであれば、「何のための生きるのか」という問いには、「来るべき「他者」」のために、と答えることになる。


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実家よりほど近い、国営飛鳥歴史公園。暖かくそして涼しい風が、春風と夏風の合間をくぐって今を通りぬく。

わが子は青芝を踏む。わが父親も同じように。その足取りが、気のせいか相似形を描く。
お互いの心が、本能と愛情という違った仕方で近接しているせいであるのか。
歩くことに不慣れなことと、それに随分疲れていることがたまたま似ているのか。

いずれにしろ、「何のために生きるのか」というレヴィナスの声は、この青空のもとで、驚くほど善く聞こえるのである。

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さあ!2008年のゴールデンウィーク到来。明日からその前半を迎える。当所も世間相当にお休みをいただきますので宜しくお願いします。なお、スケジュール詳細は、トップページご参照。

さて、、、今年は何をしようか。例によって帰省をしたりなどというスケジュールが当然のように確定しているが、その他の部分が未処分。故に、その部分をゆっくりじっくり処分したい。さあどうしよう。

そうだ、というかやっぱり今年は本を読もう。休みが終了して、その明ける週の初めには、ほんの少しだけ成長している自分を実現したいと思う。

そのように、大切に過ごそう。

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橋爪大三郎 『はじめての構造主義』(講談社現代新書)

構造主義に属すると言われる学者の本をこれまでいくつか読んでみて、それでもなお「構造主義」とはなんだ??という疑問が継続していたので、とりあえず手にとる。

この本、三章構成。

はじめに、「「構造主義」とはなにか」という章で、それを取り巻く時代状況、学問的状況の大づかみがなされる。
次章では、構造主義の旗手といわれる人類学者レヴィ=ストロースの業績、すなわち「親族理論」や「神話理論」の要諦を具体的に紹介するという形で、構造主義といわれる学問の実体・実際を、輪郭を、一つの代表的な手法を、具体的な仕方を、紹介している。
そして本書の実質的終章である第三章「構造主義のルーツ」は、前章で見たその実際が、第一章でみた構造主義が、学問的にどのようなルーツをもつものなのか、そして歴史の終点たる現代においてどいう位置付けられ、どれほどの意味をもつのかということを、ヨーロッパ思想史、科学史の大河の流れの中で洋々と展開する本書のメインイベントとなる。見事。

本書はとにかく文章が軽快で適切。非常にわかりやすい。
だから、「構造主義」という言葉を、教養として、大雑把に掴みたい人には絶対的にお勧めします。

だけれども、だからといって、「構造主義」が腑に落ちるかどうかとは別問題。

社会における「無意識的、集合的な枠組みの存在」「要素と要素とからなる全体で、変化しつつも不変の特性を保持する枠組みの存在」すなわち、いわゆる「構造」の存在を主張し、文化の相対を肯定することに尽きるのが構造主義である(と思う)。

構造主義はやはり哲学ではないな。構造の存在を肯定し、あらゆる多様性の価値を認めたとして、「で、結局どうなのだ」「だから、どうしたらいいのだ」ということについて答えを試みることがないからだ。

素人が本書を読んでみてやはり感じるのは、近代の啓蒙から眼が覚めて、その絶対性が揺らいだとして、「ゆらいでいますよね」と認識して確認するのがポストモダン(構造主義やポスト構造主義)であり、どれほど難しい議論がなされようとも、やっぱりそれ以上でもそれ以下でもない気がする。やはりポストはポストなのであり、決して正道ではないのであり、その延長線上には、新しく活気に満ちた逞しい世界は描かれていないし、来ないのだろう、という気がする。よくわからないが。

そんな次第で、歴史のパースペクティブからして時代が大きく動くにはまだ数百年かかるか、とも思われる。思想が解りやすく熱気を帯びていないから。だけれども反面、いやいや思想なんて尻目にして、すぐにでも実体の先行が世界を動かすようにも思われる。

いろいろ本を読んでいると、ますます解らなくなる今という時代を、しばしば深く考えざるを得ない。

※ 本書の結びに、日本においては正統な意味での近代すら経験していないのだから、ポストモダンなど数百年早い(とは言っていなかったが)というようなことが書いてあった。日本に必要なのはむしろ近代だと。まったく妥当な主張なのだが、今更日本だけ純粋な近代を経験することはできない(思われる)わけで、なんともいかんともし難い。

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小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)

タイトルどおりレヴィ=ストロースの入門書であり、構造主義の入門書でもあるが、「親族理論」「神話理論」といういわゆる構造分析に加えて、「ブリコラージュ」について触れられているのがよい。

「ブリコラージュ」とは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳され、要するところ限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。ブリコラージュする人のことをブリコルールと言う。フランス語かな。

この「ブリコラージュ」概念は非常に興味深い。この概念、いやこの概念を用いて、著者が言いたいこと、これを個人的には以下のように理解している。

1 何かに達しようとする際に、専門的に用意された直接的な道具や、知識や、述語やそんなものが無くとも、有り合わせの材料から目的に達することはできる。
2 何かに達しようとする際に、専門的に用意された道具などは、その用途のほかには役立たない脆いものである。
3 とにかく何でも新しいものを、新しい概念を、新しい知識をと要求するのは間違いで、その新しさは何千年と繰り返された人間の営みの単なる言い換えにすぎないことがよくある。新しいことをしていると勘違いしてはならない。表面上の形式にとらわれてはならない。先進社会の最新知を未開社会が無意識的に実践していることを私は証明した。知のモルモットになることを避け、獲得した知識経験から思考することが大切なのだ。それがよく生きることだ。
4 専門化、部分化(画一化といってもいい)の徹底はあらゆる物事にとって好ましくない。個人的(フォーディズムの弊害よろしく)にも、人類の文化にとってもだ。あらゆる物事にとって大切なのは、主体が「全体性を知って」行動できること、世界が「多様」であることである。

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C.レヴィ=ストロース『レヴィ=ストロース講義』(平凡社ライブラリー)

あらゆる思想ややり方について謙虚であること。懐疑的であること。世界観的多元主義、文化相対主義(教授言うところの、第三のヒューマニズム)の視点を、テーマを移ろいつつも常に訴え続ける、これだけは言いたいのである、そんな講義です。

講義内容は、誰にでもわかりやすいテーマ設定と、誰にでも優しい語り口で貫かれていながら、それでいてその徹底して謙虚な姿勢に、底知れない知性を感じる内容。

哲学と法学を経て人類学へ到達したレヴィ=ストロース教授。上のような姿勢の基底には、すべてを懐疑する哲学者の生い立ちが、やはり色濃いのである。

とてもやさしい内容で、皆さんに薦めたいと思います。

参考に本文目次。

第一講 西洋文明史上主義の終焉―人類学の役割
人類の歴史と人類学
人類学とは何か
客観性と全体性を求めて
第三の人文主義・人類学
人類学者は何をなしうるか
人類学の未来―質問に答えて

第二講 現代の三つの問題―性・開発・神話的思考
共通言語としての親族関係
「未開社会」の人口受精
低開発とは何か
超自然をもつ社会
神話の意味するもの
「未開社会」と現代文明の接点―質問に答えて

第三講 文化の多様性の認識へ-日本から学ぶもの
人種決定論の誤謬
文化が遺伝を決定する
累積的社会・停滞的社会
文化相対主義と人類学
日本文化の位置-質問に答えて

2008年4月21日 20:32

名古屋、住宅、ホテル。

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週末は天気が良かった。写真は自宅です。

っと、当然嘘。

名古屋に遊びに行って、八事の住宅展示場に寄ってきたので記念に一枚。

羨望のジョージアン様式。
絶望の広さ。
欠乏のリアリティ。

わかりきったことながら、現実離れした床面積、仕様。これがどうしたら多くの購買層の計画の参考になろうか、いやならない。もちろんそんなことはわかっている。供給サイドの他者との関係で、いかに客を引くかという争点からのみ導かれた豪邸なのである。

利害を共通にする供給サイドで合意さえできれば、わざわざとんでもない費用をかけて、実際的な効用のないモデルハウスを建てないで済む。後々ユーザーとトラブルを起こさないで済む。しかし利害を共通にしつつも基本はライバルという関係性のもと、誰もが望まずして経済規模はだんだんと膨れ上がる。

社会の縮図ですね。根深いです。

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宿は名古屋観光ホテルにする。

英国調の統一。名古屋随一の名門ながら、予約の取り方によっては非常にリーズナブルな価格設定にびっくりする。

ホテル業界。東京を筆頭として、大資本が現代的で豪勢なホテルを建てるので、決して新しくはない、名門の、クラシックなホテルは、軒並みリーズナブルになっていく(安価が過ぎて、むしろリーズナブルではなくなっていくのか)。まだまだその傾向があるように思える。こんなのは例外だが。

ホテルの価値。真新しい、現代的な設備のみを求めるのであれば、クラシックなホテルに勝算は無い。先細りの、箱物のビジネスモデルの中で生きるしかない。しかし、伝統や、物語性や、歴史に耐えたデザインをそれ相応に評価するのであれば、別の展開もありうる。

歴史や伝統の価値、普遍的な価値を、いかに正統な形で、しかしわかりやすくメジャーに訴求するか、この背反する問題は、しばしば名門旅館復権に係る内部のドタバタ劇という象徴で、お昼のドラマの王道となるが、これはね、お昼のドラマが解を提示できるほど簡単な問題でない。

とても根が深い。これまた社会の縮図である。

とりわけ、宗教も、市民革命も、正当な近代もなく、浮遊した現代のみ存在する現日本では、この難しい問題の解を導くための「前提」が、まずもって無いのです。

蛇足)
このホテル、バーは相当にかっこいい。他は知りませんので各自ご判断を。

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セルジオ・レオーネ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(ワーナー・ホーム・ビデオ)

週末久しぶりにDVDを観る。ある人に薦められて、アマゾンで購入。アマゾンってすごい。1989年に、大枚と監督の生涯を入魂した作品が、ほんのワンクリックで、1500円で、数日後に手元に届く。

ワンスアポンアタイムインアメリカ セルジオ・レオーネ
主演はロバート・デニーロ その他ジェームス・ウッズなど

「1920年代初頭のニューヨーク。禁酒法の嵐が全米を吹き荒れる中、ヌードルズとマックス、二人の少年は出会った。やがて二人を慕う仲間たちが集い、彼らの暴走は狂気を帯びていく。友情・愛・裏切り-。
これはユダヤ系ギャングの半世紀に及ぶ一大叙事詩である。」

と映画の物語性についてはパッケージに譲る。イタリア移民のマフィアの人生を描く。

それにしてもアメリカについて考えるとき、いつも驚嘆するのはその歴史の浅さ。開拓の営み。本当に、心からの想像力でもってその歴史の映像を想起するとき、なぜだか空恐ろしくなる。やっぱりアメリカはすごいのか、と空しさにも似た想いもする。

ところでロバート・デニーロは上手い。その他の役者も上手い。皆上手い。演技の底が計り知れず高いのは、換言してそれが自然なのは、日常との差異が小さいからか。

そうだ、この人達にかかわらず、役者でない欧米人も、いわば日常を演じているようなものだ。瑣末なことに喜び、悲しみ、そして奇声を上げている。たとえば遊園地の絶叫マシーン。日本人は恥ずかしそうに急流を滑る。対して欧米人は怒涛の歓声を上げ、必死の形相を表しそして一転高笑いで〆る。存分に楽しむ。

演技の上手さの源泉をたどると、ある泉が見える。すなわち、日常すら演じるこれらのものは、自分の人生に「自覚的」であり、「自発的」なのだ。「あえてする」とでも言おうか。そこから様々なふるまいを汲みだす。

この「あえてする」という仕方。遊園地の享楽にだけでなく、生き方に、宗教性に、そして社会制度にすら貫かれているような。自ら選択して、あえて選択したからにはそれに誇りをもつ。自由や民主を信奉する姿にもそれを強く感じる。

自発的に徹底して思考した「結果」、所詮人類は、哲学や思想に未だかつて真理を打ち立てることができないのだから、ならばヒューマニズムの宿命を負って、仕組みの中であえて全力でふるまう。こんな感じではないか。

この候補者はこう見えて実は周到である。実は計算高いらしい。相手方と比べても、こっちのほうがより保守的なのだ、とかなんとか。

この「実は」などというものは、実際あてにならない。人間は様々な世界を生きなくてはならない。こんな時代に、否こんな時代でなくとも、絵に書いたような生き様など望めない。仮に絵に描いた生き様が「存在」するとしても、その「見方」は多様である。

「言葉」を信じ、「弁論」を信じるアメリカ人が見ているのは、現象としてのその姿の奥に、システムや背景ではない個物としてのその人間が、果たして「透明なもの」「潔いもの」「善いもの」をもっているかどうか。まさに目の前にある言葉や声色や視線から、つまり現象から、直接的に演繹しているに違いない。いや、それら感覚や経験を信じるという帰納がそこにある。

システムや背景など、「自発的に変更できる(と心から信じている)」ものを頼りにしない。「こいつに騙されても仕方ない」と思えるかどうか、そんなところではないか。善解しすぎか。

これに至っては、その自発性にひれ伏すほかはない。


とにかく、アメリカ人は演技が上手くて当然なのである。

2008年4月 9日 20:16

人生談義。

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エピクテートス『人生談義』(岩波文庫)

紀元100年頃を跨いで生きたストア派の哲学者エピクテートスの言葉を、その弟子が記述したもの。まさに談義。

「第二章 社交について
何よりも前に君が注意せねばならないことは、誰か従前の知り合いや、友人と深くつき合って、その結果、彼と同じ程度まで成りさがることの決してないようにするということである。もしそうでなければ、君は君自身を破壊することになるだろう。だが「私は彼に失敬な奴と思われるだろう、そして彼は私に前と同じでなくなるだろう」という考えが、もし君を襲うならば、何事も無償では起こらないし、また同じことをするのでなければ、前と同じ人であることはできないということを思い出すがいい。それでどちらでも君の好きな方を選ぶがいい、君は旧態依然たる前の君として、以前の人々から同じように愛されたいか、それともよりすぐれた者となって、前と同じようなことは受けないか。つまりもし後者のほうがいいならば、すぐさまこちらの方へ心を傾け、別の思想が君を気散じすることのないようにするがいい。というのは何人ももし二途にまたがるならば、進歩することはできないからだ、いやもし君が何よりもそれを選んでしまって、もしそれのみを目的とし、それに骨折るつもりならば、他のことはすべて遠ざけるがいい。だがもしそうでなければ、この二途にまたがることは君に二つのことをするだろう、すなわち君は分相応の進歩もしないだろうし、また以前に得ていたものを失うことにもなるだろう。というのは以前につつみかくしなく、何の値打ちもないものを求めていた時は、君は仲間たちの気に入っていたのだから。だが君は二種類の事柄において秀でることはできない、いや一方のことにかかわればかかわるほど、他方のことでは君は失わざるを得ないのだ。君が飲み友だちともう一緒に飲まないならば、君は前と同様彼らの気に入ることはできない。それでどちらでも選ぶがいい、君はのんだくれとなって、彼らの気に入りたいか、それともしらふで気に入られたくないか。君が歌の友だちともう一緒にうたわないならば、前と同じように彼らに愛されるということはできないのだ、それでこの場合も君の好きなどちらか選ぶがいい。もしつつしみとたしなみとのあることの方が、人から「気に入った人だ」といわれることよりもよりいいならば、他のことは棄て、断念し、身をそむけるがいい、君とそれらのものとを無関係ならしめるがいい。だがもしそれが意に満たないなら、徹底的に反対のことへ赴くがいい、道楽者の一人、もしくは姦夫の一人となるがいい、そしてその次のことをなすがいい、そうすれば君の欲するものを得られるだろう。また跳びあがって、ダンサーに歓声をあげるがいい。だがそんなに違った性格は混合しない。君はテルシテースとアガメムノーンとを演ずることはできない。もし君がテルシテースたらんとするならば、君は背が曲がって禿頭でなければならない。もしアガメムノーンたらんとするならば、君は大きく立派で、そして部下を愛する者でなければならない。」

当たり前のことだが興味深い。2000年前から人間は同じようなことを考えていたらしい。

死の問題に頓着しないといわれるストア哲学。死を強烈に思考し、また人間が善を行うための装置として技術的に死を導入しなくとも、「自分にとっての」時間が有限であり、貴重であり、一時たりとも無駄にできないことは、先天的に知られるはずだ。人工的に覆い隠されない限り、本来はそのはずである。

人生において、自分の心に、何をか為したいのか、そうでないのか。

大らかに生きても、忙しく生きても、それは問題ではない。いかに自分にとってよりよく生きるか、そのことが主題である。

談義の中では、こんなことも話される。

「もし何か原理について人々の間に話が出たら、大方沈黙しているがいい。というのは君は消化しないものをすぐ吐き出す大きな危険があるからだ。そして人が君に、君は何も知らぬといっても、噛みつかなければ、その時こそ君は本物になり始めているのだと知るがいい。羊は秣を羊飼いのところへ持って来て、自分がどれほど食ったかを見せはしない、むしろ餌を内部に消化して外部へ羊毛や乳をもたらすのだ。だから君も原理を普通の人々に見せないで、むしろ消化したものに基づく行動を示すがいい。」

首肯。こんな記事すら書く必要がない訳だ。

2008年4月 2日 00:01

文章読本。

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三島由紀夫『文章読本』(中公文庫)

論理的で人工的な美。著者の叙述はよくそう語られる。
論理的であるが、その人工美にいたる客観的方法が結局なんら示されず、また他者もそれを実現できないのであるから、やはりその論理は「文学」である。三島由紀夫の記述は、本来の仕事であろうが、批評であろうがその他であろうが、最後はやはり一様に以上のような性質を滲ませる「文学」に総合される。本書も全体としてそのようなものです。

目次は以下のとおり。

第一章 この文章読本の目的
第二章 文章のさまざま
 男文学と女文学
 散文と韻文
 文章美学の史的変遷
 文章を味わう習慣
第三章 小説の文章
 二種類のお手本
 短編小説の文章
 長編小説の文章
第四章 戯曲の文章
第五章 評論の文章
第六章 翻訳の文章
第七章 文章技巧
 人物描写―外貌
 人物描写―服装
 自然描写
 心理描写
 行動描写
 文法と文章技巧
第八章 文章の実際―結語
附 質疑応答

1 そもそも
さて、著者は、第一章 この文章読本の目的 において次のように記述します。

「文章はさまざまの進歩をし、変化をし、それぞれの個性にしたがって最上のものが作られていくので、この「文章読本」の目的も、ある一つの型の文体を最高のものとして、ドグマティックに文体の階級制度を作ろうというのではありません。私はなるだけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。」

要するところ文体に階級制度を引くドグマを廃し、文章に様々な自由を認め、それぞれの美しさを認め、あらゆる固有の魅力を紹介しよう、と宣言しているわけですが、本書で語られるのはそんなことではない。むしろ、独断と偏見に満ちた見解の啓示と、それに沿って導き出されたいくつかの作家、いくつかの文体の賛美である。その価値を世に問おうとする堅固な意思である。

まずこのようなことを知って読むほうがいい本です。しかし私にとってはその独断が普遍性をもって読まれるので何ら問題ないわけですが。

2 三島らしいエピソード
序章においてはまた、著者の大蔵官僚時代のエピソードが語られる。
つまり、あるとき大臣演説の草稿を書かされた著者が起案をして課長にそれを見せたところ、課長が著者の文章を下手だ、と言い上役の事務官に改定させた話。

文学的なるものとはほどとおい無味な名文を書くことの「容易さ」と、しかしそれに満足せず、その枠に納まることがどうにもできず、その峡谷に難儀する著者の葛藤。このことが、故にその後の人生を再選択したことへの暗喩となって語られており非常に興味深い。

それにしても「わかりやすい文章」「読みやすい文章」「論理的な文章」を書くほど簡単なことはない。極力レトリックを廃し、接続詞を多用して、論理を追って綺麗にセンテンスを流せばそれでいいのだから。

著者はそのような乾燥した世界に辟易とすると同時に、著者が信じる文章の深みに、あるいは文章の高みに、日本人を誘い込んで留まらせる強い動機を、序章で明確に主張している。

3 総じて興味深かったところ
 (1) 歴史に拘束された日本文学の宿命、遠い過去から日本語を規定してくる呪縛力、というものを西洋との対置において簡潔に示している。
 (2) 文学とは小説とは「物語」をではなく「文章」を鑑賞するものだ、という仕方に全く同意した。私個人、そのようにして文学を文章を読み、数行のくだりに打ちのめされて丸一日ひっかかることもあるからだ。
 (3) 人称を省略せよ、接続詞を省略せよ、擬音詞(オノマトペ)を節約せよ。

4 終章末文より引用
「私はこうして文章を書いていますが、去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう。それが進歩の証拠だと思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります。自分の文章の好みもさまざまに変化して行きますが、かならずしも悪い好みから良い好みに変化してゆくとも言い切れません。それでもなおかつ現在の自分自身にとって一番納得のゆく文章を書くことが大切なのであります。
私はブルジョア的嗜好と言われるかもしれませんが、文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。例えば、正確な文章でなくても、格調と気品がある文章を私は尊敬します。現代の作家の中でも私は自分の頑固な好みにしたがって、世間の評価とはまったくちがった評価を各々に下しています。日本語がますます雑多になり、雑駁になり、現代の風潮にしたがって与太者の言葉が紳士の言葉と混ざりあい、娼婦の言葉が令嬢の言葉と混ざりあうようなこの時代に、気品と格調ある文章を求めるのは時代錯誤かもしれませんが、しかし一言をもって言い難いこの文章上の気品とか格調とかいうことは、闇のなかに目がなれるにしたがって物がはっきり見えてくるように、かならずや後代の人の眼に見えるものとなることでありましょう。
具体的に言えば、文章の格調と気品とは、あくまでも古典的教養から生まれるものであります。そうして古典時代の美の単純と簡素は、いつの時代にも心をうつもので、現代の複雑さを表現した複雑無類の文章ですら、粗雑な現代現象にまげられていないかぎり、どこかでこの古典的特質によって現代の現象を克服しているのであります。文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。」

1970年。檄文を上梓。あれから38年。

三島論数あれど、また自身の種々の言行に惑わされるも、やはり徹底的な近代主義者であったということが言われる。徹底的な近代主義者であればこそ、だからこそ、明治の元勲がそうであったように、近代を自発的に回すには、孤独な自由には、不安な民主には、無機質な資本の回転には、宗教性が必須であるということを見抜ぬいていた。西洋でプロテスタンティズムが、日本においては天皇が、「近代」あるいは「近代らしきもの」を疑念なく「素直なかたち」で駆動させたように。私は、三島の、その見解に同意したい。

そして三島は近代が「純粋なる近代のままに」回り続けていいと考えてはいなかったと了解している。もはやそこには戻れない。近代的なある価値を保存しつつ、依然とは違った仕方で回ることをもはや世界は求めていると。三島にとって天皇は、次の仕方で世界を回すためにもやはり必要な、宗教的なるものの、あえてする観念的な表象だったように思う。

いずれにしろ三島の文学が、未だ燦燦と輝きを保持するということは以上に何ら回収されない。いや「現代」においてこそ、である。

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