ホーム 所長BLOG

2011年8月 7日 22:21

循環。

信頼すべき同業者と食事をしてきました。今日は,社会の循環ということについて話をしました。

仏教には,存在論・因果関係論として,「空(くう)」という考え方があります。「縁起(えんぎ)」という考え方があります。儒教には「仁(じん)」という最終題目があり,世界は正しい関係性そのものによって成り立つとする「良知(りょうち)」という題目があります。客体としての世界がある指向性をもって直線的に進むのではなく,世界はそれ自体主体であって永遠変化する普遍の関係性そのものであるという考え方です。

仏教は,儒教は,神道は,その表現形式はともかく,同じことを説くものと信じます。それは,世界の正しい関係性に積極的態度で身を委ねよということ。言い換えれば,世界が正しく転がるための普遍の循環を尊重せよということ。

ところで,儒教における仁とは,その文字が天と地とそれを繋ぐ人を象形して,直接的には世界そのものを表し,終局的にはそのすべてが正しく連関する世界観を表すとするのが私の理解です。とはいえ言葉には限界がありますから,仁の文字は,仁の実体のすべてを表すことはできません。よって孔子は,『論語』陽貨編において,仁の実践,すなわち仁に沿う人間の生き方の実践を説いて,仁に近づく有り方を表現しています。少なくとも人間にとっては,このように実践することが仁を体現する道であり,仁そのものに至るあり方であるとします(荻生徂徠『論語徴』は別説)。数少ない仁の積極的表現です。

「恭・寛・信・敏・恵の五つのことを,天下に行っていけるならば仁と言えるね。恭しくして侮られず,おおらかであって人望をえ,信があって頼りにされ,機敏であって仕事ができ,恵み深くしてよく人を用いることだよ。」

天下に行うとは,家庭であっても,職場であっても,公の場であっても,何ら変ずることなく変わらない態度を維持し,自己の関係する社会に広くこの実践の輪を広げていくことと解します。後段は,すべての要素を兼ね備えなければならない意と解します。礼儀正しく荘重であっても明敏に仕事ができなくては駄目であり,狭量で利己的であっては駄目です。おおらかであってもいい加減で信がなければ駄目です。よく仕事ができたとしても軽薄では駄目であり,おおらかに,よく人を用いなければ駄目なのです。

仁の実践は,文物の関係性を正しくし,円滑にし,楽しく活発にし,社会の循環を促進するに相違ありません。見渡せば,仁に近い友達を私は幾人も持っていることに気付きます。道理で気持ち良くお酒が回ります。

2010年4月29日 08:20

ミスマッチ。

私は司法書士である。司法書士であるから不動産の登記(名義変更)の仕事をする。不動産の登記の仕事をすると、一般の個人の方との仕事のほか、不動産屋と仕事をすることもある。すると不動産屋との付き合いもできてくる。ということで、友達の不動産屋が、本業と別途に経営するバーに昨年末から今年にかけてたまに飲みに行く。

不動産屋とバーはミスマッチだが、「不動産屋とお酒」と言い換えれば別に珍しくも何でもないので(少し失礼か、いや一定事実であるはずだ)、これはいい。

過日奈良市内のそのバーで飲んでいると、これまた常連らしい学生がマスターから茶色いお酒、すなわちウィスキーをすすめられて嬉しそうに飲んでいた。このあたりは近畿大学農学部の大学院があるのでおそらくそこの研究生らしく思われる。学生がウィスキーを飲んでいることや、夜遅くまで飲み歩いていることや、研究に全身全霊・全可処分時間を充当していないことについては人のことを言える立場にないのでこれまたいいとして、マスターとウィスキーのうん蓄を交わしたり、時には交戦したりするのが見物に飽きなかった。例えば蒸留所やスコットランドの風土などについて。農学の研究生は、やっぱりウィスキーへの興味も、麦芽や蒸留の仕組みの方面から分け入るのだろうか。

客の酒が回った。貰い酒をするマスターの酒も回る。係る夜更けに、明日京都大学で研究発表をするというその男が、おもむろにホールにノートパソコンを開いて予行演習を始めた。本人曰くにそれなりに際どいという大事な研究内容を、酒が必要以上に助けた弁舌と、全く必要のない大げさなアクションを伴って発表する。マスターにはわからない、農学に就いたことのない他のどの客にもわからないその研究の到達点が、しかしこの場にはどうしたってミスマッチで、決して妥当しないということだけは、研究者を除いた一同のうつろの表情がいかんともしがたく証明していた。

ただ、ミスマッチな肴もたまには悪くない。
そんな肴の将来もまた楽しみである。

2008年9月25日 08:41

友人、旅行、石川。

R1032661.jpg

1 友達
甘い言葉。軽い言葉。いかにも浅薄な響き。

2 本当の友情
そんなものがあるのか。本当の人生すら確定し得ないのに。

3 何でも言える間柄
だから何だというのだ。何でも言えるからといって、言って良いとばかりは限らない。また何についても同意があるとは限らない。むしろ言葉の取捨選択にこそ人間の実践的教養があるだろう。

4 価値観が一緒だね
全く同じ人間などいない。とりわけ人生の重要な部分においていつも人間は深刻に相違する。もし人間精神が同じなら対峙する妙味も感ずまい。同一の二個を、自然はきっと許すまい。だから、甘ったるい同情などいらない。むしろ同調圧力にはのっぴきならない差異を主張して、あえて抗したいとすら思う。

5 旅
旅には無条件の価値があるか。他国を巡回すればそれだけで真実に達しうるか。その契機は掴みうるか。そんな楽天的な妄信(あるいは偽装)は、現代において、自分において、もはや失笑すら買えない。

6 多文化の摂取
日本に文化の多様性はあるか。現象はどうか。精神はどうか。日本の、この驚くべき同質性。わが国は驚嘆すべきほどに、同一文化の光彩に射されている。それは、旅に自己成長を、また異文化の摂取を求めるなどという安易な感受性には、日本は大いなる一つの国を為して渇望者にあきらめと絶望を惹起するようなものである。旅先の生活を自分のものとして受け入れこれと同化する素直な感受性こそが、旅先における人間生活の、思想の、見まがうことの無い個性の、静かな通奏低音を見出すだろう。

7 息抜き
仕事をするに疲れ、休暇において安らぎを求めるとはなんと在り難き楽観だろうか。否、仕事を離れた純白の感受性を世にさらせば、そこに現出する無限の世界への間断ない興味が押し寄せて、とても安らぐ次第ではないのである。興味や関心や自己解放は、捉えきれない世界を捉えること、それを自己のこととして受け止めるものの苦汁を精神に滲ませている。


先の休みに、同職数名と、各々自動車を別にして、各自の責任における運転にて、石川県に旅をした。

長旅であったが、道中は時折休息をして下らない話をし、また一人になって黙々と運転をし、宿では議論をしたり同調したりした。酒も飲んだ。それにしても下らない話はいいね。だからといって真面目に話すのもいいものだ。畏まった話にも、下らない話にも、どちらに真実がないとは言えないからだ。

さて、これはどんな旅か。
皆個人である。大人である。男である。
よってそれは、各々の旅なのであろう。

経済を異にし、支配権力関係を別にし、別段干渉もしなければ制約もしない。話題があれば問いかけ、気分が向かえば話かけるような関係は、ここに限って言えば、近代が想定した合理的一般人の、個と社会の適切な関係の箱庭のようにも見え微笑ましくもあるのであるが、だからといって暑苦しいような関係継続への契りや意思の逐一の確認を欠いている点において何とも融通無碍であり、一体性も、全体性も、友を終局助ける同調の意思も、また助かるる意思もないようであるから、何だかそれは寂しげな横顔をしていないでもない。いやそんなことはない。助けるのかもしれない。求めるのかもしれない。将来はいつも未確定である。

しかし私は、友人関係に約束を望まない。未確定な関係性の、その確定を希望しない。そこには嘘が付き纏うからだ。

未確定のままでいい。そんな不透明な関係の、それでも基底には必ず帯びる透明な「色彩」が心地いいのか、そうでないのかこそが重要である。その色調が心地いいのならば、未確定な関係性のホックは、その未確定の性質を相変わらず保ったまま将来へと自分を繋ぎとめていくのだろう。

少なくとも心地よく透明で、そして感受性の懐に幾分かの思いを落とし込んだこの度の旅行は、私個人に善い旅であったと思う。

R1032634.jpg

R1032676.jpg

▲ページトップへ