信頼すべき同業者と食事をしてきました。今日は,社会の循環ということについて話をしました。
仏教には,存在論・因果関係論として,「空(くう)」という考え方があります。「縁起(えんぎ)」という考え方があります。儒教には「仁(じん)」という最終題目があり,世界は正しい関係性そのものによって成り立つとする「良知(りょうち)」という題目があります。客体としての世界がある指向性をもって直線的に進むのではなく,世界はそれ自体主体であって永遠変化する普遍の関係性そのものであるという考え方です。
仏教は,儒教は,神道は,その表現形式はともかく,同じことを説くものと信じます。それは,世界の正しい関係性に積極的態度で身を委ねよということ。言い換えれば,世界が正しく転がるための普遍の循環を尊重せよということ。
ところで,儒教における仁とは,その文字が天と地とそれを繋ぐ人を象形して,直接的には世界そのものを表し,終局的にはそのすべてが正しく連関する世界観を表すとするのが私の理解です。とはいえ言葉には限界がありますから,仁の文字は,仁の実体のすべてを表すことはできません。よって孔子は,『論語』陽貨編において,仁の実践,すなわち仁に沿う人間の生き方の実践を説いて,仁に近づく有り方を表現しています。少なくとも人間にとっては,このように実践することが仁を体現する道であり,仁そのものに至るあり方であるとします(荻生徂徠『論語徴』は別説)。数少ない仁の積極的表現です。
「恭・寛・信・敏・恵の五つのことを,天下に行っていけるならば仁と言えるね。恭しくして侮られず,おおらかであって人望をえ,信があって頼りにされ,機敏であって仕事ができ,恵み深くしてよく人を用いることだよ。」
天下に行うとは,家庭であっても,職場であっても,公の場であっても,何ら変ずることなく変わらない態度を維持し,自己の関係する社会に広くこの実践の輪を広げていくことと解します。後段は,すべての要素を兼ね備えなければならない意と解します。礼儀正しく荘重であっても明敏に仕事ができなくては駄目であり,狭量で利己的であっては駄目です。おおらかであってもいい加減で信がなければ駄目です。よく仕事ができたとしても軽薄では駄目であり,おおらかに,よく人を用いなければ駄目なのです。
仁の実践は,文物の関係性を正しくし,円滑にし,楽しく活発にし,社会の循環を促進するに相違ありません。見渡せば,仁に近い友達を私は幾人も持っていることに気付きます。道理で気持ち良くお酒が回ります。






