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2011年5月30日 18:45

『法華経を生きる』

夕方友人と連絡していたのがきっかけで,石原慎太郎『法華経を生きる』(幻冬社)を読み返しました。

随分前にこれを読んで,なるほどそうだ,と納得した記憶が蘇ってきました。今読み返して,果たしてそうかな,という点もないではないですが,それは人間であるが故の表現の相違の問題であって,おそらく究極的には,なるほどそうだ,という思いに変わりはありません。

宗教とは何たるか,ということの入門書です。あるいは哲学の入門書です。親族関係の逸話,人間が先祖から子孫へと繋がる存在であること,延いてはあらゆる存在は相互の関係性のもとに永遠不滅に存するものであることが,法華経と哲学科学を行ったり来たりして語られます。終盤に至ってやはり涙無しには読むことができません。涙が流れて,しばらくの時間は何かの正しい姿に自分が直っているような気持ちになります。

絶対のないことが仏教の絶対の真理であるとして,また流転の関係性のみが仏教の絶対の真理であるとして,しかしその関係性は何であってもよいわけではありません。こうして涙が溢れるのは,やはり正しい関係性が存するが故です。

①世界は変化する関係性によって永遠に成り立つ。②その関係性にはある正しさがある。③その正しさはそれを求める裡にしか存在しない。このことを気付かせ,このことに至る方法を記述する本は,よい本だと思います。そうした本は,きっと涙を催します。哲人は,皆それを説くのだと思います。

「私はこの本の読者に,とくに若い人たちに,自分自身が在るということについてふてぶてしい自信をかもし出すのに少しでも役立てばと願っている。」とは,あとがきの結びです。

2010年2月22日 20:45

本質追求、普遍性の追及。

厳しい寒さの後はまた暖かい。ちょっと気持ち悪いくらい。この時期は気候変動が激しいので、顔見合わせる人々と、寒いですね、暑いですねと常々種々交わすことになる。

しかし不思議だ。この寒いですね云々は、生まれてこの方もはや数え切れないほどの人々と数え切れない回数交わしているはずなのに飽きずに毎年やっている。大して代わり映えのしない声色で、表情で、ずっと繰り返している。このまま無事に生涯の歩を進めれば、きっと過ごした年月や季節に正比例して同じ言葉を積み重ねていく。これがビジネスであれば、数年前はおろか数日前から同じことを言っていれば、「あいつはいつまで同じこといってんだ」と無能の烙印を押されること請け合いであるに、係る場合はそうではない。こんな風な、無条件で繰り返しを許されるやり取りは、時候の挨拶と、旨いものを食べたときのやっぱりこれは旨いなというある種の合意と、そして真実の愛のささやき、その他わずかを数えるだけである。繰り返しが許される場合の共通項は?因数は?何故に許される?と、前置きを書きながら横滑りに気付いて、それはまたの機会に留保しつつ話を別のところへ持っていくことにする。

さて少し前のこと。夜中にNHKを見ていると、佐野元春のザ・ソングライターズ(佐野元春がホストとなってゲストを迎え音楽のとりわけ「言葉」というものについて話をする番組)に松本隆氏が招かれていた。どこか大学か何かの聴衆を前にして歌詞、言葉、人生について語っており、終盤学生の質問にも答えていた。この番組は面白い。面白いので結局最後まで見てしまい、夜更かしの憂き目にあう。

前半はありがちに時系列を追ってはっぴいえんど時代について語られ、中盤は一連の松田聖子プロジェクトについての談義。人当たりはいわゆる音楽家宜しく斜に構えているようでいて、ただ語られる内容はよく聞いてみると実直なものであり、また時折のしぐさや表情にシャイな桃色が滲むようで、恥かしながら今までテロップでしか目にしたことのなかった松本隆というカッコつきの人間について、映像を通して姿態を目で見その声を耳で聞くことによって少なくとも過去よりいくばくか増した情報を得てみると、やっぱり結果を残すに足る魅力的な人だなあという印象を持った。年齢を考えてみるといい。

松田聖子プロジェクトについて言えば、歌い手の天才性についてためらいもなく語っておりこのような態度には非常に好感が持てた。自分の歌詞の力によって云々、という話は係る場面ではなかったように思う。がしかしまた一遍を通じて、自分の才能を正面から認め、確信し、表現し、伝え、悠々としているように見えた。私は、昔このような態度をとる人が苦手だったが、最近は自信をもって表現する人が大好きになった。対応して、謙遜から押し黙り、ほくそ笑むような態度がおよそ嫌いになった。もっともあまりに押し付けがましかったり、また才能のないものが勘違いから威張ったりするのはおよそ問題の外であるが。

さて、普遍性の話。この番組自体、ソングライターを次々と招いて音楽について語り合い、その先に人生の普遍性や目的を見出そうとする試みであるように思う。ソングライティング、すなわち作詞がテーマになっているが、作詞とは言葉をもって表現する芸術形態であるから一つの文学である。文学は哲学や宗教と違った仕方で人間や人生の意味・目的を追求し、ひいては社会や世界の究極に迫ろうとするものであるから今回の番組もそれら普遍性に触れられるのは当然である。

「ながら」で見ていたので記憶が定かではないが、箇条的に帰納演繹すれば以下のような普遍性に言及があった。

① 自分が作詞をして生きていくということは決して当初から企図したものでなくていわば流れ着いたようなものである。職業とはそのようなものではないか。
② 歌詞を作るという職業を通じて、人間とは何か、愛とは何か、、といった自然科学や哲学が解決不能な問題として横においている本質的問題を何らかの形で追及したい、作詞という形式を通じて裏側からそこに迫りたいと考えているのだ(哲学が本質問題を横においているという事実は哲学という学の本質そのものについて言えば事実誤認だと思われるが)。
③ 世間が技術的になり細分化し枝葉をどこまでの伸ばそうとも、また一応の必要性からそれに相応して自分の技術的知識や教養を逞しくしようとも、やはり大切なのはそもそもの起点たる本質であり、本質に立ち戻ることこそ人生であり他には何もない。そのような本質でもって世界にぶつかるのであればどのような世界であっても生き抜くことができる。本質に目を据えるものには、実は世界は生きる(生きるだけであれば)に容易い。
④ 大衆にうけなければいけない、大衆に訴求しなければ駄目だということ。ただし大衆にうけるに才能や修練が必要でないとは言われない。そうでなく、大衆から遥か離れた教養と技術を裏に所持して、しかし末葉や分子構造をそぎ落とした大きな幹でもって語りかけ、大衆をして燦燦と繁る枝葉の存在を、地にめいっぱいの強さで両手を広げた根の量的存在を、それらを自ずから想起せしめるのだ。

なるほど。限りなく濃縮された本質的な訴求、簡素な表現。そこから際限なく還元されうる才能や思想や修練の跡。人間の豊かさ。人間の悲しみ。人間の魅力。豊潤なる人間本質。

このような仕方は、たまたま手元にある森鴎外の筆致にふと思いを至らせることになり、至らしめられた思いは、当然行動を、その文庫や全集の表紙を翻す所作に誘うことになる。

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森鴎外『妄想他三篇』(岩波文庫)

森鴎外の妄想、百物語、心中、蛇を読む。百物語は十度目くらい、妄想は三十度目くらいの読了となる。どの短編も岩波の文庫版で数十ページ程度の極めてコンパクトな小品である。今回も、内妄想は、四回ほど繰り返して読んだ。

妄想は、ジャンジャックルソーの告白や福沢諭吉の福翁自伝と並んで、私のもっともお気に入りの告白文学。もっともつまらなく、もっとも主観的であるはずの自己告白という表現形式を、可能な限り客観的に、普遍的に、かつ愉快に料理することに成功した歴史的金字塔だと思われる。ルソーの大部の告白に比較することはばからしく、福翁自伝に比較するに一見して小さな品であるに、自伝の形式を借りてそこに押し込められた普遍性の、そこから得られる普遍性の還元の程度は、まったく遜色なくどこまでも放射するようなものである。より大きな複雑な表現対象を可能な限り圧縮して、もうこれ以上圧縮できないという極みにおいて文字を震わす森鴎外の文学にして、この妄想は、自伝というまさにあまりにも大きなモチーフを、わずか数十ページの微小に圧縮した紛れもない代表作の一つである。

これ以上圧縮できないものを圧縮して紹介することはできないのであるが、構成としては以下のようにできている。

導入と結語部分は、自然力厳しい海辺の別荘に著者自身がいて、屋内には文学や哲学の書籍を壁一面に囲い、屋外においては顕微鏡やルーペや望遠鏡を用いて自然観察にも目を配りながら、軍医としての文学者としての人生を追想するという形式をとっている。その追想される中身の部分が、導入と結語に挟まれている。

学業優秀にて大学を卒業した鴎外は二十台に軍医としてドイツ留学をする。「嘗て挫折したことのない力を蓄えていた」鴎外は、早くも留学生活において、「舞台役者」に過ぎない自分の社会生活に疑問を生じ、そこには決してない人生の本質を求める内的な旅を始める。舞台役者としての日々の義務を最高度に果たしつつ(これが鴎外の真価であるが)、しかし日々の要求を果たすことだけに決定的に安んずることを得ない自我をパラレルに内在して、鴎外の精神的旅は続く。

ハルトマン、ショオペンハウエル、ニーチェへと、真の生をもとめて哲学を渡る鴎外。今昔に「もてはやされている人」の立派な思想に脱帽し、時の権威としてそれを利用しつつも、決して確信し、首肯することのできない鴎外。世人がおしなべて言うところの死の恐怖を感ぜず、かといって死への憧憬も持たず、誰に拠るでもなく本質を内部に求めざるを得なかった鴎外。そんな鴎外は、本質を文学や哲学のなかに永遠に追い求めつつも決してそれを得ない。しかしあきらめない。しかし得ない。そして、得られるものは、役に立つ自然科学であるとして自然科学の有用性を力強く主張して追想を終える。

医学と哲学文学に両足をかけた普遍的な人生は、導入結語に表現された別荘内部の文学生活と、外部の自然観察に、実践され、押韻される。

鴎外の求める普遍性と表現の芸術性にしびれを切らしていると、やはり頭のあたりが非常に疲れて、疲労は食欲をもよおし始める。食欲、性欲、睡眠欲は三大欲だというが、睡眠欲の実現は誰しも努力せずして満足するものだから、より本質的なものは食欲と性欲か。今は腹が減ったので、食の本質を思い出させる店をひとつだけ紹介する。

こにし家
縁あって兵庫県三田市のこにし家。少し遠くて、少し値が張るが、そんなことを言ったら怒られそうな気勢の店主。

おいしいお酒(日本酒)をいただけるお店。今風に換言すれば本気で取り組む日本酒のセレクトショップか。有名ではない、澄み切ったおいしいお酒が飲める。間違いない、本質に近いと思う。

今年も五月が終わりましたね。今年は事務所のほうもゴールデンウィークとして、五月は二日から十日まで休んだので、職業的には本当ににわかに過ごした感のある五月ですが、私的な方面もなんだかんだで気ぜわしく小事が追ってきて、それをやっつけているうちに、やはり総じて四月から六月に向けて忙しく追い出されたような、そんなひと月でした。

ところで先週だったか、ある晴れた日に、近所の馬見丘陵公園に行ってきました。家族とともに、陽射を、涼しい風を、運動を、それぞれに求めて。

しかし涼しい風はまったくそこには無かった。代わりに鋭い太陽の直射があって、それに少しひるんで坂道を少し登った木陰に移ると、直射は繁った緑に薄められた何層ものレースに変わった。その小高さから見下ろしたところには小さい池があり、光のレースの向こう側には、深緑のみなもが、同じ根拠の直線的で鋭い光を、目の前のレースとは違った仕方で弱め、ちりばめ、寂として美しい複雑へと化していた。ほんの一瞬間に焦点された美しい光。暖かい光。少し移ると相変わらずまばゆい光が射していたが、それはもはや、さっきほどの美の切り出しをもってはいない、、、

春の美しさ、五月の美しさとは、きっとそのように眺められるものだと思います。感じるものは、その一瞬を捕まえて、過去に未来に、永遠に、洗われ、希望し、欲望せざるを得ないようなもの。

五月の美しさ。それはひとときに閃く生命それ自体の美しさ。生成の、芽吹きの、恋・愛への暖かき強き欲望。あらゆるものの健全な欲望が、清らかな形で立ち上がり、物心に満ち満ちて互いにその表象と内実とを交換する。

五月はいつもいいですね。静かで、尚に元気があって。

その過ぎ去るを惜しむ、係る次第で、この月の後半には、愛に関する以下のような本を読んで見ました。少し感想がてら書きますが、脱線して際どさに落ちたら、五月に免じて簡便してください。

○プロローグに代えて
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ニーチェ「五月の歌」『ニーチェ全詩集』(人文書院)

以下、ニーチェ叙す。

小鳥たちのさえずりは
歓喜にみちて、森の奥深くにいたり、
野原は、やさしい五月の陽光に
照り映えてひろがる。
花咲く野辺を、
小川がさらさらと流れ、
雲雀は高らかな歓びの歌声をそえる。
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?

ぼくらの心のなかで、悲しみ、
ためらい、打ちひしがれていたもの、
ぼくをとりまく荒涼とした怖るべきもの、
いま、これらのものは白日のもとにすきとおる。
花々の乱れ咲く草原では、
いま、花々はやさしく羞いつつ花ひらき、
蜜蜂がぶんぶんとそのなかを飛びまわる。
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?

純粋なる至福の
果てもしらぬ充満よ!
おお 無上の快楽よ! ぼくの心に
ぼくの苦悩の衣をまとわせよ!
春風のように、おまえの心に
さやさやとそよぎこまぬものを
消滅せしめたまえ!
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?

この悦楽の大海原に
ぼくはわが身を沈めたいと思う。
甘美なその思い出を思うだに、
たちまちにぼくの胸は喜びに高鳴るのだ。
おまえを抱擁して、もはや
二度とおまえを離したくはない。
おお 春よ、吹き込んで来い!
五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものはありえない!

○エロース=あまりに清らかな
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三島由紀夫『潮騒』(新潮文庫)

潮騒を読む。もう五、六回読んでいるが、また読みたくなった。一連の三島由紀夫の小説に一点爽快な青い空の趣によって異彩を放つストレートな長編。これはまさに疾走である。永遠の形式美である。主題として離島における純朴な若者の恋愛を描く。今般改めて熟読し、感銘した。数時間の余り何もできなくなった。

幾度にもわたり原作として映像され知れ渡った本作の、文庫における裏面にはこのようにある。
「潮騒と磯の香りと明るい太陽の下に、海神の恩寵あつい若くたくましい漁夫と、美しい乙女が奏でる清純で官能的な恋の牧歌。人間生活と自然の神秘的な美との完全な一致をたもちえていた古代ギリシア的人間像に対する憧憬が、著者を新たな冒険へと駆りたて、裸の肉体と肉体がぶつかり合う端整な美しさに輝く名作が生まれた。」

これをもって、純粋のオーセンティックの青春小説だとある人は言う。
入念な取材旅行とギリシャ小説の底本による形式の忠実な履行だとまた人は言う。

全くそのとおりだろう。しかしそれがこの宝物の価値をいささかも減じるものでないことは、それら指摘に汲み尽くせぬ溢れんばかりの美の充実の目に疑えぬことを、万人がほろ苦くも認めざるを得ない由であろう。著者もまたそれを認め、目指し、獲得せんとしたものを獲得したのだ。

青春の本質とは何か、青春に別離した人生の深淵を語りうるか。究極の形式美の追求は自ずから内に篭めたる個性のきらめきが、終局の分水嶺たることの明らかなることは、ここでは長々と語るまい。

さて作中には、混じりけのない男と女のやり取りがある。それは、精神の強い力に、肉体の熱い希望に、断続的に支えられ堅固に強められていく。岬の紺青をさえぎるものがないように、この恋の本当を限るものはない。
女性の美しさと強さは、数少ないキャストの身体的稜線の描写を通じて、またつわものを恐れない女性行動の実直の叙事を通じて、鮮明に描出される。海において、乳房の描写はいかにもすばらしい美である。官能と美は判然等しいものである。
豊饒な自然との抜き差しならない日常も、そこから当然に導かれる神とのいと親しい交換も、全編にわたって通奏されるモチーフだ。

しからばこれは、禁じられた愛や神の問題を、珍しく概念的にではなく、極めて密やかに簡潔に、生活に生きて見せることに奏功した真の芸術であり、著者の代表作であると信じて何らに差支えが無いのである。

大人であればこそ熟読玩味すべき文庫百八十頁足らずの記述。いかにも涼しげ、しかし実に妙。―

○エロース=肉体の
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谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫)

これも有名。
主人公たる会社勤めの譲治は、とあるカフェーで女給として稼動していた西洋的豊満の息吹を蔵する少女ナオミを見出し、これを引き取ってともに住まい、育て、麗しく成長すればやがて嫁にとることを企図して生活を始めるのであるが、やがて妖艶に成熟する肉体に悩まされ、その愛欲の奴隷となっていく。ナオミの妖艶は知性も道徳もともなわず世間にあけすけと開かれていき、夫となった譲治の一筋の愛を尻目に、密やかに、また公然と、数多の男を渡るようになるのだが、愛欲の恐るべき魅力は、規範的な譲治の正当な批判を軽々と蹂躙し、悪魔的な足かせとなって、譲治を服従せしめる、、といったような筋である。

著者の、くどいようにしとしとと嘗め回す記述が、もう一人の主人公たるナオミの、どっしりとした量感のある官能を、間接的にではあるが直接に、いわれぬように伝えている。一度はこれを味わうべく、目を通していただきたい作である。

ところで、本書のモチーフは見紛うことなき愛欲であるが、愛欲であろうと、また別途の欲望であろうと、およそ欲望に対し人間が処すべき態度には、以下のような段階を立てることができそうである。すなわち、

1 盲目的に求める段階
2 規範的に律する段階
3 開かれてともに生きる段階

人間はまずもって欲望に開眼し、その味を知り、その海に溺れる。欲望は直接的であり、全的であり、世界はこれに支配される。続いて人間は、欲望に対する経験的な慣れによって、いや主として社会的な要請によって、欲望を規範的に律する。規範が欲望を屈折せしめ、その頭は押さえつけられるが、欲望の力は何ら衰えを見せてはいない。社会と道徳の規範の麓で、永遠の轟を響かせているのだ。多く人間は、この段階に生きるように思われる。しかしその先に、真の理性は、この欲望の力を認め、いや屈服し、人生の機敏はそこにこそ存在することを理性的にも直覚し、ともに生きることを選ぶ。社会の規範を正面から乗り越えるもの、規範の裏側を歩くもの、別の路からこれに達するものと仕方は様々であろうが、欲望の充足と人生の目的は、ここに至って再び同心円を描くのである。

本作中、主人公たる譲治は、ナオミの美をはたと認め、大人の策動をめぐらしてはいるもののなお素直な仕方でナオミを愛し、育てる。妖艶に成長する肢体、肉体に、一心に欲望を見る。身を交わしてよりは当然のことである。しかし、ナオミの奔放を疑い、確信して、譲治は駆け足で規範的な段階に到達する。規範意識、社会的地位、その他一切のルールを怒涛のごとく侵食され、譲治は当然の成り行きとして、ナオミとの決別を決心する。しかしナオミの官能は譲治の全能を束ねて揺るがない。譲治はやがてそれに屈服し、もはやそれでいいのだと思い做し、苦渋と官能との合一なき同居を受け入れるのである。

どうであろう、作中で譲治は、欲望への処し方において、足早にまさに天理に適う足取りを歩み、立派に成長した(?)とも言えなくは無い。

ところで坂口安吾は、その「恋愛論」や「悪妻論」において、愛欲について、およそこれと同様の結論を結んでいるように思われる。あまりに興味深いのですべてを読まれたいが、一部抜粋するにとどめ、これをもって谷崎潤一郎の肉体の書の感想の締めに代える。

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坂口安吾『堕落論・日本文化私観』(岩波文庫)

「ゼスス様は姦淫するなかれと仰有るけれども、それは無理ですよ。神様。人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思いあたわぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれども、からだには翼がないから、天を駆けるわけにも行かず、地上に於いて巣をいとなみ、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。あたりまえだ。こういう無理を重ねながら、平安だったら、その平安はニセモノで、間に合わせの安物にきまっているのだ。だから、良妻などというのは、ニセモノ、安物にすぎないのである。
然し、しからば悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情淫奔、ただ動物の本能だけの悪妻は始末におえない。然し、それですら、その多情淫奔の性によって魅力でもありうるので、そしてその故にミレンにひかれる人もあり、つまり悪妻というものには一般的な型はない。もしも魅力によって人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によって亭主の心を惹くうちは、良妻なのだろう。
魅力がない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである、男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせいとすれば、この頭の悪さは問題の外だ。
才女というタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。つまり学問はあるのかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異ならぬ。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。、、、」

○エロース=男色の
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福島次郎『三島由紀夫―剣と寒紅―』(文芸春秋)

この本は、久しく前にお客様より借り受けて、読了半ばにそっとしておいたものである。今般やっとのことで了と為す。まず何よりも、少し長く拝借しすぎたきらいについて、お客様に謝罪を申し上げなければなりません。すみませんでした。私のお渡ししましたものについては問題ございません。また六月に、本書をお返しする折にでも、そのほか別の機会にでも、お受けいたします。

さて内容。学生時代より三島由紀夫に心酔し、その延長が師事と為し、遂にはその私邸に出入りして、若き三島由紀夫と、そして両親共々の付き合いを行った経験をもつ著者(晩年は特殊な間断的な関係へと変化していた)が、「不世出の天才的作家」として賛美され尽くした三島由紀夫の、一面「人間として迷える羊」でもあった三島像を世間にあえて提出し、これこそが三島由紀夫の本当の供養になるのだと言辞して始める著者いわくの「小説」である。

ここに言う「人間として迷える羊」であったとは、主として、三島由紀夫の男色の性向、その遍歴、性行為、これが著者との間で行われ軋轢を生むその過程を専ら指しているのであって、「不世出の天才的作家」としての三島由紀夫の創作、自問、葛藤などには決して触れられていない。こちらのほうは一向に迷ってなどおらず、迷っているとしてもそれは著者の知りえない高みにおいて自問の形式の中で行われていたことすら匂わされており、さすれば迷える羊たる一面は、天才的一面の直行を何ら障害するものでも、転回するものでもなく、これがために三島由紀夫の供養が善く進むとの序章における言辞は、どうにも妥当しないように感ぜられる。結局本書の望むべくは所謂禁断の暴露、所謂不世出の天才との関係性を誇示するもの、これら域を脱することができないものだと思われる。

しかし図らずもこの書が、著者の意図から去ったところで、三島由紀夫の精神の機敏、細やかな優しさ、本質を見る勇気、忍耐と克己、愛するものへの心遣い、といった多様な積極を十分に表現しており、「不世出の天才的作家」という明るみに出尽くした表の顔と身体に、さらに肉付けをほどこし、側面から支柱してさえもいるという逆説は、まさに本書所有者の批評するとおりである。

ところで、美しい男子を愛でるというそのことはギリシアの哲学や文学に明らかなように、はるか聡明な文明において、かつて美しい欲望であった。ゲイや男色が、これと系列を同じくするものなのかそうでないのかはよく分からないが、ともかくも私にはその性向が一体判らない。

しかし私が美しい女性を愛するように、男を愛する感情がそのようにあるのならば、それは致し方がないのであるし、それは切ないのであろうし、それは男が女を愛し女が男を愛すると同様に、世に最も尊重し、大切にされるべき精神作用に他ならないだろう。

そうしてみれば、この書はともかくも愛するものに対し、かように真摯に、繊細に、誠実に対した一人の男の、それなりに詳細な事実の記録だと考えれば足る。

○エロース=イデア(真実在)
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プラトン『饗宴』(岩波文庫)

パイドロス、パイドンと並んでプラトンの代表的対話編である。議題は愛・恋(エロース)、背景は文字通り宴。酒を飲んで議論することは、ギリシアからの営みである。それなら我々が止むを得ないのも仕方がない。

宴においては、エリュキシマコスの提案に応じエロースについて演説すべきことを一同合意する。果たして、ファイドロス、パゥサニアス、エリュキマコス、アリストファネス、アガトンという出席者が弁じ、最後にソクラテスが更なる間接説話の形式で大演説を為すのである。

ある者はエロースは最古の美神であり恋するものは恥ずべき行いを決してその対象に見られることを欲しないだろうところから、エロースは徳をもたらすと言う。あるものはエロースを高貴な精神的なものと万人向けの肉体的なものに分類する。そしてある者はエロスを宇宙的に拡張しあらゆる秩序はエロースによって保たれると説く。
転じて別の演説者は、エロースの本質は、神によってかつて一つが二つに引き放たれた人間は、やがて一つになる本質的欲望をもつものであり、本来相互依存の関係にたつ者を求め実際に結合を果たすことであると弁じる。やがてソクラテスが静かに弁舌を開始する。冒頭ソクラテスは、既に為された弁舌の根底を揺るがす。全ての演説者の演説は皆等しく独断に根拠を置くものであり、単なる言葉の遊戯に過ぎないのだと強烈に批判する。

そしてソクラテスは、哲学をもって弁じる。愛・恋・美(エロース)とは所有しない者に対する憧憬、渇望であるとするところから内容をはじめる。通常所有しているものは欲しない。所有していないものこそ欲するものである。すなわちエロースは美への欲望であるから、エロース自体は所有しないものである。所有しないものは神ではない。完全性を欠くからである。エロースはむしろ、完全と無知との中庸にあって、美しき知恵を愛し求めるものである。エロースは美しき知恵、幸福を求め、どこまでも、これを永遠に所有せんと欲する。永遠の所有には欲するものの永遠の命が必然である。必滅者たる人間がそれを求めんとすには、生殖によって個体の延長をはかるのほかはない。そしてエロースは美しきもののみを求めるものであるが故、生殖においてもまた美しき肉体を求めるのである。しかし不死の美しさは肉体にとどまるものではない。それは芸術や学問という精神的なものを経て、最後に至高の美の原型、絶対美のイデアを見るに至る。エロースは遂に、理性の永遠の情熱、フィロソフィアの形をとるのである、、、

私はプラトン研究者でないのでなかなか真に至らないが、今後別訳や周辺をもあたうかぎり読んで、少しでもその言わんとするところに迫ってみたいと思う。

○エロース=その先にあるもの
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三島由紀夫『岬にての物語』(新潮文庫)

「その性向は乾燥し寿衰えつつも、今なお根強く残っているが、幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費やすことをも惜しまぬような性質であった。夢想がその内実の全てに影響を及ぼしている特殊な生活を体験したことのない人にとっては、それは危険以外の何物とも見えないから、、、」
二十歳の大ロマン主義作家たる三島由紀夫は、その幼き時代の自己の明晰すぎる感性を、主人公のわずか十一歳の少年に仮託して物語は開始される。

「夢想は私の飛翔を、一度だって妨げはしなかった、、、」少年は夢想のままに、その美しい母に連れられて、妹とともに、明媚な風光、ほとんど非の打ち処のない風景を奏でる房総半島のとある海辺に、残暑のさかりを過ごすのである。

眩しい海風がわたる灼熱の浜。豊饒な香り立つ波打ち際はそこにある。浜に遊ぶ人々の中にも、少年はいわれぬ孤独を感じる。少年は日傘を出て浜を離れた。ならぬとの大人の言い付けを突然の気まぐれに破って、少年の夢想と、唐突の冒険心が、宿命的な出会いに向けいざなわれて、岬へと足を向かわせたのである。

絶景へと存分に描写される壮大な岬。轟く潮騒。紺碧の海。そこで少年は、名状し難い悲劇的な美をもつ女性に出会ってしまう。美しい女性は、相似の顔つきを湛えた男性と幸福に包まれて連れ立っていた。男女の美しさは、この世の喧騒から隔絶された何かであり、男女とこの世をつなぐものは、夢想によって尊きものを確かにに知る少年と、わずかに遊ぶひとときだけであった。

少年はそのひとときに永遠を見た。心豊かであった。しかし少年が遊びに目を離した刹那、男女は、「悲鳴に似た微かな短い叫び」、「荘厳な美しい声」、「高貴な鳥の呼び声」、いや「神の笑いにも似たもの」を少年の心に響かせて、静かに断崖に消えたのであった、、、

この作は、二十歳程の三島由紀夫が、若さ故の獰猛な無制限の才能を放射して、全編に、ほとばしる天稟を投げつけた快作である。後に三島由紀夫自身がいうところの、「言葉の純潔性を保持するためには、言葉によって現実に出会うことをできるだけ避け、、」というところが存分に発揮されている。現実を避けながらこれだけの密度で紡ぐ筆力。

果たして美しき男女は兄弟か、いや愛するものであろう。これらを死に、天に導いたものは、神の恩寵か、禁断された欲望か、はたまた純然たる愛欲、哲理の徹底、条理の貫徹、あるいは絶望という名の希望であろうか。

このたとしえもない大きな事に面し、十一歳の少年は、また二十歳を跨ぐ著者は、「人間が容易に人に伝え得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めてさすらい、おそらくそれとひきかえでなら、命さえ惜しまぬであろう一つの真実を、私は覚えてきたからである。」と本書を締めくくって、ひとつの早すぎる確信に到達する。

命さえ惜しまぬ大切な真実とはいったい何か。

その先にあるものはこの物語を読むものそれぞれに確信すべく問わねばならない著者との黙契であろう。

○エピローグに代えて
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中原中也「山羊の歌、無題」『中原中也詩集』(岩波文庫)

以下、中原中也叙す。


こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人間に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはついひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我侭だった!
目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私は何のことだか分からなく悲しく、今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!


彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

嘗て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遭わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!


かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分かち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。


私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持ちの中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人でもあるやうに感じて。

私はおまへを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!

Ⅴ 幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。

幸福は休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈して、怒りやすく、
人に嫌われて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎えられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!

読書、音楽、ファッションの順にて。

○読書
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正宗白鳥『世界漫遊随筆抄』(講談社文芸文庫)

人生の秋を迎えた文士正宗白鳥が、激動の昭和初期、フランスをはじめとする欧米諸国や、中国等を訪問した折の旅行記である。二回通して読んだ。

日本における学問や文学は、いつの時代にもその先進の外国から押し寄せてくるという特徴がある。日本有史以来、それは漢から、そして欧州から、米国から、相手を代えながら延々と押し寄せている。事の優劣ではなく、大陸で一定の市民権を得たものと、小さな島の国で適用されるものを比較したならば、より大きなもののルールがルールとして説得力を持つというただそれだけのことだ。

著者の時代、文学の求心力はやはりフランス周辺国にあった(もっとも淵源は日本の詩文や漢文にあっただろう)。だから、鬼才の正宗白鳥とて、やはりその才は、少なからずそれらの国の様式に従って発揮される必要があったのであり、したがってその宗主国である欧州漫遊というのは、著者にとって、天上の楽園を除き見る如くの経験であったはずである。

しかし、ここからが、著者の凄みである。

著者は、楽園を訪れるに際し多少の興奮を表してはいるが、船旅において既にその目は真実を見据えている。ロンドン、パリ、イタリーという地を踏んでも、その素晴らしきかな点と、否十分に批評されるべき点を確実に見据えている。同じ視線が、満州や北京、ロシアといった諸国にも実に客観的に注がれる。叙述には何らの容赦がない。

また賞賛と消極的批評は、物語性を持つことなく、前後に入り乱れる。いったりきたりで、読み手に安心感を与えることがないのである。ロマンティックに判断を曇らせることも、煌びやかに飾り立て盛り上げることもない。純然たる批評家正宗白鳥が、淡々とその業務をこなしていく。

これはニヒルで面白くないか。否、実に面白い。これは虚飾か。否、これこそ真実である。本当の国際交流や国家意識とはこうでなければならぬような気がする。いや射程はもっと広い。人生とは本当はこういうものではないか。歴史とはこういうものではないか。美しさとはこういうものではないか。

科学技術に先んじればそれだけで立派な国となったり、国際的な正義が達成されるものではない。人はどうか、学者も宗教家も文士も決して聖人ではない。規範はどうか、社会的正義は必ずしも真理ではないし、道徳は必ずしも人間を幸福にはしない。

欧州が優れていようとも、それが総てに及ぶものではなく、日本人が大和心や武士道を謳いあげても、これをもってすべてに優越するものではない。その欠点もまざまざと自覚されざるを得ないのだ。国粋主義も国際主義もいずれも誤りである。すべてがあるコンディション、すなわち個性だ。大切な個性ではあるが、ロマンティックに流されてはならない。

最後に信じるべきは、自分の直接に経験する事実だけである。直接に経験する幸福だけである。純粋なる信頼、直覚だけだ。そのようなメッセージが聞こえる。

本書を読んで、改めて正宗白鳥は、何者にもとらわれない純然たる批評家として、また真実の探求に際し眼を曇らせることがない明晰な思想家として、この世界に、より評価さるべき才能だと思った。

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谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)

古典的名著。初めて目を通す。熟読した。大変面白かった。

なんと温かみのある文章の教科書だろうか。味わい深い教科書である。筆者は公知のとおり、豊潤な文章をつづる名手として日本史に定位を占めているが、本書では、流麗な調子を醸す書き手(著者は源氏物語派などともいう)として、自ら自己規定をしている。著者の文章をこのように読ませるものは、その文体と、際立つ知性と、なんと言っても音読の習慣と検証ではないかと思う。著者も、本書の中で、音読の大切さについて非常な力を込めて筆致している。

著者は、文章とは何かという第一章において、文章に実用も芸術もないというようなことを言う。何より分からせること、美しいこと、心地よいことが重要だと言う。また第二章の上達法において、文法に囚われるなということ、感覚を研ぐことの大切さを執拗に説く。第三章からは各論であり、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄ということについて一応の分類を立て、例文をあげつつ分かりやすく論じている。

しかし本書を貫く思想は、やはり実習(名文を読むことと自ら作ること)が大切であり理論はあまり役に立たないということ、文章のための文章というものはなく、文章・言葉は精神の発露であるから、何よりも感性と品格と含蓄を磨くことこそが文章の上達に資するのだということに総合されると思う。

とにかく本書は一つの確かな思想書であって、文章の教科書的記述はその形式に過ぎない。第一章、第二章の内容に触れればそれは明らかであるし、また本書を通してある、いくつかの形式論理の矛盾を破って(そのままにして)、その場に個性的な真実を追求する姿勢からしてまさにそうである。

こんな薄い書であってもさすがの知性は隠すことができない。その言わんとするところは著者らしく豊潤に膨らんで読み手に流れ着き、心地よく分からせてしまうのである。

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西田幾多郎『哲学概論』(岩波書店)

久しぶりに西田幾多郎先生の哲学概論を読み返す。今回は三日ほどを要してゆっくりと読んでみる。

この本が、哲学なるものの本質(哲学概念や科学・芸術・宗教との相違等)を伝え、認識論や形而上学(存在論)という哲学の方法の細目を、極めて平明に、極めて清潔・公平に叙し、もって現在においてもおよそ哲学概論という導入書として永遠の力をもっていることは、もはや真理の域に達しつつある。今般改めて熟読してみて、少なくとも私が目を通したいくらかの哲学導入書に、これに比肩すべきものは皆無だと信じた。個別の哲学者やその論を取り扱う態度に無私の心があり、その取り扱う深度に絶妙な手腕と読者への想像力が光る。

しかしこの本の素晴らしさは、細目の客観的な整理に止まるものではない。むしろ極めて独創的な哲学者と言われた先生の、その思索の一端を窺いうる巻末の付録も、この本を貴重ならしめる主要な要件である。

附録第一 哲学と宗教
附録第二 純粋経験
附録第三 形而上学はいかにして可能か
附録第四 実在

その内容、これはもう自分で読んで確かめるほかはない。

ところで、先生の推奨する定義に従えば、哲学とは、「知識の最高統一」であり、「世界観(世界とはいかなるものであるか)、人生観(いかに生き、何を為すべきか)を学的に(概念的知識として)求めるもの」である。

すなわち、哲学とは世界の真実在(真理)に判断的に迫るものである。
また芸術とは、世界の真実在を現出させて眺めることに喜ぶものである。
そして宗教とは、世界の真実在と合一しそれそのものを生きることである。

さて。皆さんはどの領域に生きますか。

三つはいずれも素晴らしいものであろうから、もし可能であれば、その範疇の一隅を占めることができれば楽しいだろう。そして苦しいだろう。しかし甲斐あるものに違いない。

それにしても凡人は、相当に自問しなければ自分の個性や居すべき場所に到底迫ることができない。果たしてそれが可能か否かも疑わしいわけであるが、いずれにしろそれは、長い時間を賭けて磨き、確信し、削りだしていかねばならない性質のものだ。個性は。人生の充実(楽しさ)というものは。

またこれを契機に、私もよくよく考えてみたいと思う。

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プラトン『パイドロス』(岩波文庫)

プラトンの代表的対話編である。ソクラテスとパイドロスの対話によって哲学論が展開される。対話であるから一気に読み通すのがよく、この美しい詩的創作に、巻末に至って涙さえ禁じえない。

この書の主題は形式的には二つである。すなわち一つは「弁論術(レトリック)、及びこの対概念である対話・問答・弁証(ディアレクティック)」、そしてもう一つが「恋(エロス)」である。

しかし実質的・内容的には、前者においては弁論術や形式論理といったレトリックは、その基底にディアレクティックによる真実在の追及という本質を伴っていなければ意味を成さないということを通じて、また後者においては、恋(エロス)の情熱が世の陳腐な形式を乗り越えて人間にとってもっとも根源的な喜び、すなわち人間本質に迫るものであること、及び恋(エロス)や美は、世界の真実在たるイデアを想起させる顕著で代表的なものであるが、その欲望は恋のみならず善や正義についても追求されうるしまたそうあるべきである、というそのことを通じて、「哲学の大切さ」という究極の統一的主張を提出するものである。

ただ、本書においても真実在たるイデアの中において、とりわけ恋(エロス)・美について、特別の扱いを施しているという印象は免れ得ない。作中でソクラテスはエロスが視覚的であるが故に他のイデアに比して強烈な印象をともない一般に感得されやすいのだと説明するに止まっているが、エロスについては他に「饗宴」という代表作がそれを対話の中心に据えているので、別の機会に紹介しようと思う。

エロスの問題を置けば、本書の中心課題は疑いなく対話によって本質に迫ること、すなわちディアレクティックである。いや、ディアレクティックという方法よりも、本質追求がいかに根源的価値であるかというそのことである。本質の追求こそは、まさしく本質的なことである。

美文を覚えこんで聴衆に訴えるだけの弁論に何の価値があるだろうか。本質そのものではなく、「本当らしく」思わせるような説得。レトリック。これでは愚か者しか騙せまい。多数を騙しえたことによる成果物も、やはり本質にはほど遠いものだろう。

ここにいう弁論・レトリックとは、誤解を恐れずに言えば、現代においてはその直接的なるもののほかに、自然科学、学問、単なる知識(事物の知・不知)、教派的宗教、権威のための権威、儀礼的な集団、あるいは政治などと言い換えうるかもしれない。盲目な仮定を前提して、抽象的な形式・方法・因果を追い、本質に迫ることを放棄したそれらのもの。前提した盲目的な仮定の「真否」こそが唯一、そこから汲み出された上述の全ての技術の価値をあまねく規定するというのに。

さて、哲学は本質を追求し、すべてを疑い、知識の最高統一を行うものである。また言い換えれば、人間欲望の最高の満足と統一を計り、いつまでもどこまでも究極の幸福を求めるものだと私は考える。

自分の生活は、あるいは態度は、前述のレトリックに陥っていないだろうか。常に前提を疑い、本質を求め続けているか。また現世にのみ適用される瑣末な形式に惑わされて、本質的な欲望を呪縛していないだろうか。

改めて深く問うことを約束させる古典・普遍の名著である。


○音楽
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桑田佳祐「KEISUKE KUWATA」(ビクターエンタテインメント)

高校生のときによく聴いたアルバムを、何気なくもう一度買って聴いてみる。いつの間にか、何処のところかで失ってしまったアルバム。

ジャケットを手にとって、まだ耳にしないうちにも、あの時の思い出がよみがえってくる。誰もが知る音楽のエートスだ。

あの時。自分は幼くてよくわからなかったが、ただ確かに感じるものがあった。例えば爽やかな妖艶。隠然と射すきらめき。質量のある切なさ。そんな如くのもやもやが迫って、自分はその正体が知りたくって、あるいはそれが心地よくって、何度も何度も聴いたのを覚えている。

あの時。でもそれはそんな難しい訴求だけではなく、幼少の初恋やプラトニックや、同時代の恋心にもストレートに響いて、だからこそ幼きに何度も聴くことができて、故に作者は天才と呼ばれうるのだと思う。本物は万人に訴求する。

そして今この時。いつの間にか、何処のところかで失ってしまった何かを、また取り戻したような気がして、自然感謝をしたいような気持ちになる。

もし自分が音楽の世界に閉ざされて、一枚だけ「アルバム」を救い出せるとしたならば、今ならきっとこれを選ぶ。二十年前に、今に新しく、心震わす音楽。

二枚目があるならば、バッハのブランデンブルグコンツェルト。こちらは普遍だ。
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○ファッション
そろそろ衣替えも迫ってきた。よって、用事のついでにミナミの町を巡回した。ミナミであればその北のほう、長堀を中心にうろつく??のが昨今の仕方である。

個の店は捨象し、セレクトならやっぱり一番かっこいいのは、ストラスブルゴだと思う。ここの経営体は、シューズであればエドワードグリーンの総代理店を行っている(長堀通りはジョンロブやベルルッティが店舗を並列する革靴にとって世界でも貴重なロケーションである)。話を聴くと、卸売り業務が主であって、小売は従であるとのことだが、小売だってものすごくかっこよく仕上がっている。クラシコイタリアを初めとして、置いてあるものが違うので、それも当然といわなければならないが、とにかく本物の服飾が持つ物的な圧力と服飾にかける精神性が小さな店舗に圧縮したかたちで同居していて、それはもう暑苦しいほどである。

しかし、こんなところでばかり買い物をしていてはすぐに破産をしてしまうのが悲しい現実であるから、たまにのぞいて、若くて端正な面持の担当者の話に、本場への憧憬を掻き立てるのが関の山である。それでも十分に楽しいが。

とにかく、服飾が好きな人ならきっとわくわくするお店です。

2008年11月17日 20:51

読書週間と読書の秋。

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読書週間(もう終わった)、読書の秋ということで、近頃はまた根を詰めて本を読んでいる。

なんでも読書週間というのは出版に係る各団体が起こした営業のための作為ということらしいが、読書の秋はそうでもなく、自然から出でたものだろう。ならばある程度理に適っているような気もするし、心なしか読書もはかどるような気もしている。

読書の秋はどこから来るのか。その過ごしやすさからか。気温か、湿度か、陽射しのやさしさか。それとも、世間の忙しさが、冬を前に小康するからだろうか。冬の盲目的な忙しさに備えて、知恵や豊かさを蓄えておくべしという規範か。よくわからないが、とにかく少しははかどるように思える。

ここ数ヶ月は小林秀雄先生の全集を相変わらず通読し、正宗白鳥全集、河上徹太郎全集、(ポール)ヴァレリー全集については目録を作って時の許す限り拾い読みをしている。それにしても疲れる。頭が痛い。ただ、止めることができない。坂口安吾の批評集も読んだ。その他明治以降諸々の小説も読んでいる。

上のような批評家のテキストには面白いもそうでないもなく、都度、珠玉の宝石箱を覗くような心持がするのだが、小説については面白いものもそうでないものもある。しかし面白くないからといって意味がないとは言えない。

それにしても、作家の個性の、一体これほどの明らかなことは最近になって特によく自分に現れてくるように感じられる。また、いわゆる名作というものは、実は名作という響きがもつ健全な魅力のみで訴求するのではなく、いろいろに角度をもって眺めてみれば、その裡にひそかに毒気をもっていることも少なくないようである。そして、健やかさも、毒も、悲劇も、道化も、やはりゆっくりと面白いという余韻を湛えて輝いている。名作たる所以である。

正直言ってあまり時間がないので、文学や絵画といった危うい芸術については、時の検証に耐えたもののみを選び取りたい。それだけでも大変な蓄積である。取り崩すのは苦行である。得体の知れないものを品定めしている余裕はない。

時間がないが、この苦行は、やはり止めることはできない。秋が終わって寒い冬に、またそれは同じであるだろう。

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小林秀雄「小林秀雄公演【第一巻~第七巻】」(新潮社)

新潮社から出ている、小林秀雄先生の講演録を購入して聞く。全部で七巻分(一巻CD二枚組)あってちょっと値が張ったので躊躇したが、やはり購入して聴いた。お盆前に購入したので、お盆はこれを聴いて、本を読んで過ごした。構成から言って全部を聴くとおよそ14時間程度に及ぶ。しかしお盆の期間だけで三回聴いた。それからも車の中や、携帯プレイヤーでフィットネスでも聴く。これからも聴き続けるだろう。

「不明を恥じる」とはまさに的確な言葉である。
以上の作品を評して、茂木健一郎氏が記したものである。
「生きることがわかっていなかったんじゃないか」とも言っている。こちらのほうも、的確至極な言葉である。

小林秀雄先生は、西田幾多郎先生と並んで日本近代最高知性の一人と言われる。西田幾多郎先生については、私が勉強をしない学生時代を過ごした事から、「哲学概論」と「随筆集」しか読んだことがなく、「善の研究」すらもまだ読んだことがないからよくわからない。とにかくそんな定義や評価はなんだっていい。

私はすごいものを手にしてしまったような気がする。なんと一体貴重なものを手にしてしまったように思う。

「信じることと知ること、歴史と人生、日本の神、審美眼、無私を得る道、近代科学の方法、科学の限界、徒党を組まないこと、考えるということ、感受性、本居宣長、プラトン、ベルグソンの哲学、学問の常識、合理的思想の限界、精神と肉体、因果律、魂の存在、宗教観、学問の楽しさ、源氏物語、もののあわれ、実用の理の空しさ、告白文学、個性、正宗白鳥、天賦の才、、、、」先生の言及は多岐に渡っているが、なんと美しい、真っ当な、一本の光彩が通っていることだろうか。複雑な現象に言及しながら、なんとその態度は当たり前に疑いの無い軌道を描いていることだろうか。論理の極まった精緻さでなく、自然現象の彩でもなく、人間の語る平易な言葉においてこれほどの説得力を心に感得することはそうある経験ではない。

私はその言葉に不明を恥じて、感服するのほか、採るべき態度は見当たらないのである。

思考に思考を積水した晩年の小林先生が、「不思議だなぁ、、」という。
私は確かに不思議だと思う。
「最近のインテリゲンチャは実に浅薄だねぇ。何でも知っているような顔をする。そんなことあるわけないんだよねぇ、、実に浅薄ですよ、、浅薄な態度ですよ」と批判する。
私はまさにそうであると小躍りする。
「科学なんてねぇ、そんなもんなんだよね、、諸君は迷信の中にいるんだよね、、」「そいいうことを諸君ははっきりと知っておかなきゃ駄目なんだよね、、、」とつぶやく。
私は科学の限界を疼痛する。
「そんなの言葉じゃないか!観念じゃないか!私の経験てのは私が直接にすることです。直覚することです。真実はこれしかないんだよねぇ、、」と語気を強める。
「集団的に考えるなんていうことは無いんだよねぇ。集団的に恋愛するってことが無いのと同じじゃぁないか。そうじゃあないか。みんな自分流に考えないから、イデオロギーなんていうものがあるんだよねぇ。つまらんことですよ。自分流に考えないから「会」なんてものがほしくなるんだろう。私はペンクラブなんていうものには入りません」と政治への決定的な態度を現す。
私にもう言葉は無い。

小林秀雄先生は、人間の魂はあるという。そんなことは当たり前のことでことさらに取り上げることでもないという。解りきったことだという。私もそう思う。

先生の言葉はCDという技術を用いて時代を超えて私にも届いた。私はこんな奈良の地で、その言葉に深く感得した。先生は現前した。その霊は確かにここに在った。私が望めばいつでもそこに在る。魂は存在する所以である。

ところで、私はしばらく「小林秀雄全集」を精読しているが、小林秀雄、正宗白鳥、河上徹太郎、柳田國男、森鴎外、志賀直哉・・・論理を超えた直覚を掴んだものは、皆しんしんと恐ろしい文章を書く。それはしんしんと恐ろしい。

論理を忌避して感覚のみを頼る怠惰な馬鹿にはない、直覚を軽侮して技術を妄信する盲目の阿呆にはない、論理を煮詰めきったもの、自分を見つめ尽くしたものだけがその先に見る明察。諦観。信ずる心。

大才は、レトリックを多様したりはしない。観念をもてあそんだりしない。常に具体的である。究極的に具体的であろうとする。どこまでも事実を見て、自分の眼のみで、自分の心眼だけで事実を睨みきって、事実の中だけにある真実を一滴一滴と汲み出すのだ。そして具体的であるが科学に根拠しない。科学の限界を知り尽くすのだ。眼の前にあるものから自分が直接に経験した直覚、それのみを真実として記すのだ。

大才はまた淡々と記述する。だけれども決して易しくはない。どこからか難しさが込み上げる。空恐ろしいのである。本当の恐ろしさは一文を読めば知るようなものだ。いや、わからなければその次の一文で、そして次の一文で必ず伝わるようなそのような恐ろしさだ。直接的で端的ありながら、ひとめくりの、ひとつのパラグラフの、ひと語りの文章に止まらせ、読むものを呪縛するような仕方の恐ろしさであるのだ。

小説も批評も、その物語性や論理性も去ることながら、私は筆致となって現された言葉から、書き手が何を思って書いているのか、いかなる想いで書いているのか、どのようにすればかような表現ができるのか、その至る思考過程はどのようなものか、またこれによって何を実現しようとしているのか、向けられたところは何か、そのようなことばかり考える。果たして恐ろしく感じられるのが、前述のような数少ない文士である。

文筆にしてこういったところである。おそらくこのようなものの前に立てば、私は一言も話せなくなるだろう。軽口など到底叩けなくなるだろう。

私はこんなふうに恐れる。そのような文士を恐れる。
私はこれらに憧れる。無条件に憧れる。

文芸は死んだ?思想は死んだ?哲学は死んだ?
そんなことは無いよ。それは誰が決めるのだ。個人が処するのだ。

人間を、もうどのようにも感服させる精神的なものは常に、恐ろしい呪縛力と、魅惑的な誘引力という、刀の両面の輝きでもって、凡人に鋭利に切りつけるのだ。切られたことに気づくためにも相応の感受性を要求するほどに、鋭利に。

さて、話が変わって申し訳ない。
唐突のように思われるが、私は無宗教である。

キリスト教がごとく一神教にはなじめない。というより無条件で感覚が理解を拒絶するのだ。どうしても自分のこととして解らないのだから仕方がない。

仏教は儀礼的に信仰している。儒教は自分の淵源となっているのかもしれない。しかし上記に同じく、あるものが法を説くというスタイルは、あるものが世界を提示するというスタイルは、教えにおいて上記と対極にあってスタイルに共通であるから、やはり私には終局解らないと言わざるを得ない。

日本における古神道は完全に理解をする。神ながらの道。八百万の神。あらゆるものに神が宿る。万物が自己を包摂し、また自己は万物に及ぶ。世界を規定するなどおこがましい、世界を説くなど恐れおおい。だからこそ、そうであるからこそ自分の感覚にしたがって、自分の感覚を信用して、感じるままに善いことを行うほかない、といういうのが私の現在の考え方である。これが宗教というのであれば、そういった宗教観である。

ところで人間は、私が感ずるがごとく抽象的な思想のみに満足することができず、やはりもう一つ具体的なものを求めるように創られているように思う。抽象と具体という形式のバランスが、人間に本能的に天賦されているように考える。

抽象と具体の思想における両形式の必要性。人間は対極を内在して、初めて完成された一個として精神の安全を獲得するのではないか。

具体。かつてそれは労働であったのだろう。具体的なものは、日々の生きるための労働や家族関係や、狩猟採集や、農耕で埋め尽くされていたのだろう。もって人間の具体は完全な満足を得ていたのだろう。日本古来の自然崇拝という思想、すなわち抽象に、日々の労働という具体が結合され、形式は満足を得ていたのだろう。

少し前、具体は科学により代わって満足された。科学は具体を驚くべき速度で満足させた。しかしいつの日か、科学の先端は行き場を失って、いつしか科学は抽象の領域に突入した。現実生活に直結しない、現実生活への影響を想像できない領域での科学は、もはや具体の実相を備えず、それはまさに抽象の職分に進行した。科学は具体を喪失して、形式は具体を喪失した。人間は不安定になった。

人間は再び具体を獲得しなければならない。

かつて労働の実直がそうであったように、かつて科学的精神がそうであったように、具体は、その実体からもたらされる精神的作用である。具体を満足させる精神的作用に他ならない。信ずべき具体。

私は小林秀雄先生に出合って具体的思考を獲得したように考える。私において迷いをもたらしていた具体の喪失感は、しばし、これが湧出した青雲の背後に霧散した。もちろん迷いが全て無くなるはずもない。迷い方を知ったのである。

人生にあって、実際的生活に寄与するある確信的思想のことを、私は宗教と呼ぶ。

その意味で、「小林秀雄全集」をして、またこの「講演録」をして、私はそれを自らの宗教を獲得したと呼称せしめるほかないのではないか、そうとすら感ずるのである。

皆様にも勧めない理由はない。

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2008年8月20日 23:21

白州次郎。

家は元禄時代より儒者役として三田藩主に仕える。祖父、白州退蔵は藩主に抜擢され藩政に多大なる貢献を為す。維新後は三田県大参事として邁進。元横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)頭取。事業家として神戸市開発や神戸女学院の創立にも尽力。父、白州文平は綿貿易を行う白州商店で巨万の財を為し桁外れの豪傑として白州将軍の異名をとる。
妻は白州正子。正子の祖父は海軍大将樺山資紀伯爵。父樺山愛輔は英国ロイター協力のもと現共同通信社を創始した。保険、金融など事業会社の経営を渡った後貴族院議員。数多くの国際的文化的事業を指導する。

吉田茂の懐刀
終戦連絡中央事務局次長、憲法改正過程に深く関与
貿易庁初代長官、現経済産業省設立に大きく寄与
サンフランシスコ講和会議随行、吉田演説を書き直し沖縄等返還に大きく寄与
東北電力会長、大洋漁業・日本テレビ・ウォーバーグ証券等の経営に寄与
軽井沢ゴルフクラブ理事長
、、、

本当に優秀なるものは決して矢面に立って振舞えない、振舞わない、という我が国にあって、常識を打ち破る奮闘ぶりである。

白州次郎

私が最も尊敬する実務家の一人だ。日本人が大戦後の占領政策によって自国の歴史を驚くほど忘却していったのは少なくとも現在未だ認めざるを得ない悲劇だけれども、もうひとつ驚くべきことがある。それは、そうした自国の歴史を作った長い長い歴史、アイデンティティだけではなく、戦後史というつい昨日の思い出すらも、どんどんと忘れていくのが当たり前という態度である。時代は常に進化して、昨日のことなど取るに足りないという、今日は昨日より必ず優越するという、実にこれほど確実に誤った態度である。精神よりも技術、熟慮よりも軽薄な行動、謙抑よりも虚栄、慈愛よりも恫喝、こういったいかにも浅薄な態度をどのようにして身につけたかはわからんけれども本当に憂慮すべき事態で、衷心から下らないと断言するビジネス本やお金の本など読んでいる暇があったら、白州次郎などという重大なる人物がいかに生きたかということを少しでも知る契機と為されたく、白州に関する基本的な三冊の本を紹介したいと思う。

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青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)

麻生和子、犬丸一郎、加川隆明、小林與三次、堤清二、中部慶次郎、宮澤喜一が発起人となって、渥美建夫、玉川敏雄、豊田章一郎、成田昭夫、永山時雄が幹事となって、そして青柳恵介を書き手として記された白州次郎伝の定番中の定番。発起人や幹事が、吉田茂や正力松太郎、出光佐三、小林秀雄や今日出海、河上徹太郎等々白州と汗を流し白州をよく知るものが物故する中白州の足跡が霧散するのを危惧し足跡を残すべく企図されたのが本書である。まずは絶対にこれを読んでもらいたい。評伝であるから、白州次郎や妻正子の出自から、その出会い、終戦連絡事務局でのGHQとの折衝、財界活動から晩年の「粋」に至るまで網羅して白州を知ることができる。必読。

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白洲次郎『プリンシプルのない日本』(新潮文庫)

これも必読。なにせまとまって書を残さなかった白州であるから、文芸春秋に載せられたすべて白州自身の筆致が堪能できることから必読というほかない。白州は文学を読まなかったというが、小林秀雄や河上徹太郎といった名だたる文士と交流をしうるだけのことはある味わいのある文章を書いている。白州に言わせると、これがオックスブリッジ的な日本語だ、というところじゃあないだろうか。これを読むと、当時敗戦に乗じて、豹変してアメリカに媚を売るものや、反面敗戦の割り切りができずに、破綻した財政の認識を見ないで国家に寄生するものが跋扈していたことが強く伺われる。なんだこれは、今と何にもかわらないではないか、とあきれたり、ほとほと嫌になったりする。そういう読み方もできる。

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白洲次郎ほか『白洲次郎の流儀』(新潮社)

写真集としての実質が半分程度と、残りの半分は正子、桂子といった妻子やごく近いものの白州をめぐる回想記である。まず貴重な写真が多数掲載されているのがよい。写真は生涯に渡る。これはもう見ていただくほかはない。貴重ですよ、本当に。
それから、その回想記、思い出話であるが、私が思うところは、この中で特に親族が、白州を褒めちぎったりしていないということである。こんなことがあった、あんなことがあった、と書いている。私はこの態度は本物だと思った。白州が本当に慕われている証拠物がこれである。飾るでなく、美談を持ち出さず、淡々と思い出を語る態度は、本物の愛情を表象しているし、また実直という白州の血がこのものにも息づいているなと思うのである。

以上三冊。初めのものは総合的な評伝で大きな話、次のものは自身による意見の表明で、そして最後は近しいものの視点が表される。この三つを読めば、ほんの少し白州が現れるような気持ちになることができる。


さて、白州を捉えて血統の違いだよとか、金持ちのボンボンのなせる業であると語る向きがままあるが、全くの見当違いであり馬鹿馬鹿しい。白州の残した数少ない文筆を直接読んでもらいたい。批判は本当か。借り物ではない自分の言葉。その筆致のすがすがしさと、勇気と、ユーモアと、少し皮肉な含蓄と。原理に固執し、金や権力の横暴から風のように去るその態度と。英国的であり日本的であるその態度への批判は本当か。本当であるか。

もちろん血統や資力の違いは争えまい。だがそれがなんだというのだ。そんなものを持っている人間が貧しい人間より高貴でいられる理由がどこにあろうか。少なくとも今の日本においてはそんなものが横柄で堕落している例に事欠かないのだ。むしろそれが常態ではないか。生まれの違う人間はそれなりの責任と義務を負う。どこまで社会を捏ね繰り回したって、やっぱり生まれの宿命を消し去ることはできないんじゃないか。血統も、資力も、そして才能も。私はそう思う。ならば役割分担をしっかりと果たしてもらい、「精神の潔癖」さえも引き継いでいただくのが筋である。

敗戦後には珍しく、生まれにふさわしい正当で真っ当な活躍を当たり前のように行い、激動の戦後史を英国貴族のように、本来の武士のように駆けた白州に、私は快哉を叫び、敬服をし、それをもって現代日本を享受することへの感謝の言葉に代えたい。

最後に少し引用しておきたい。プリンシプル(原理原則)を重んじ、単純な正義感にこだわる白州が、政治家の後継問題について「後継なんてお前が決めるものじゃない。主権者が決めるんだ。自惚れを脱いでさっさとやめろ。後は何とでもなる。」という趣旨の発言をした後次のように語る。

「政治家の一部の人がよく口癖のようにいう言葉で、聞いた途端に私は腹が立つことがある。それは「政治は腹だ」といって自分の無能無策に気が付かない輩がいることである。我々国民に関する限り、政治家の「ハラ」なんかに関心も興味もない。政治家の持つ思想信念が何かということを知り度いと思うだけである。政治は「ハラ」だ「ハラ」だといっているうちに再建は遅れ、その腹芸による闇取引は横行し、しまいには腹を切っても申し訳が立たない様な事態に行き詰るのを憂うる丈である。こんなことをいうとあんな「ハラ」のない奴に我々の「ハラ」なんか判るかと一蹴されることは請け合いである。これも事実である。私にはそんな「ハラ」の持ち合わせはない。幸か不幸か?」

何たる爽快。

2008年6月25日 23:02

痛快憲法学。

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小室直樹『痛快!憲法学』(集英社インターナショナル)

痛快憲法学を紹介します。
最近改めて読み返してみて、やはりなかなかよく出来た本だ。

偉人、小室直樹教授らしく、このような体裁の本をこそ上梓して、書中で悠々と語っている姿は、まさに偉人が異人とときに読み替えられたる所以ではなかろうか。

なんともふざけた装丁。しかし中身はちっともふざけていない。言葉はつとめて柔らかいが、内容はストレートに硬質である。

本書は、著者という憲法の語り手と、「シマジくん」という聞き手(これはまさに平和ボケをした日本人を模したかのようなキャラクタ)の対話(といってもほとんど著者が語りつづけるのだが)において、憲法と民主主義の成り立ちを、欧米史の流れを追って思想的・宗教的・社会学的見地から鋭く本質的に決定付けていくという内容となっている。現行憲法の無味乾燥とした解釈学などではない、欧州の熾烈な階級社会と宗教性、そして止むことの無い戦争、そこにこそある血なまぐさい憲法の出自をあぶりだしていくような、簡単な歴史書、思想史の書だと考えれば近い。明治憲法以来の日本への導入過程についても触れられる。

リアリティもこれという認識も無いのに憲法と民主主義という普遍・久遠のお題目を唱えればそれだけで反論を許さないというようなありがちで浅はかな憲法観に鉄槌を下す役割も担う。

「読者の中には「法律の本なのに、どうしてこんなに西洋史の話が多いのだろう」とびっくりされる方も少なくないでしょう。それどころかキリスト教や旧約聖書の講義まで出てくるのですから、ますます仰天するに違いありません。しかし、読み進めていくうちにきっとお分かりになるでしょうが、憲法も民主主義も、けっして「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)などではありません。これら2つは近代欧米社会という特殊な環境があって、はじめて誕生したものですから、憲法を知るには、欧米社会の歴史と、その根本にあるキリスト教の理解が不可欠なのです。」

導入の一文が著者の問題意識を端的に表している。憲法の来歴と本当の意味を知り、価値を知って、真実の民主主義を実現しよう。まさにそのために、本書を俗世にこそ問うのだ。国民よ目を覚ませと。大切なことを伝えるためには装丁になどこだわらない堅固な意思。その意思はどこから来るのか。

それは、近代社会への愛着と憲法への信頼があり、それがあればこそ形のみをことさらに整え実質は一向に伴わない現下のこの国への辛辣な憂いと、その変更への熱烈な願い、教育者としての、そして一国民としての叫びからではないだろうか。

「私の見るところ、日本国憲法はすでに死んでいます。もはや現代日本には民主主義もなければ、それどころか資本主義もない。日本国には憲法はない!」
「今、日本で改憲・護憲のいろんな議論が行われていますが、ともすれば不毛な議論に終わってしまいがちなのは、すべて「憲法は生き物である」ということが忘れられているからです。もし、日本国憲法が死んでいるとすれば、護憲も改憲もあったものではありません。死んだ憲法を今さら守ってどうするのですか。「憲法の墓守」をして、何の意味があるというのでしょう。また死んだ憲法の条文を改正しても、いったい何の価値があるのでしょう。」

著者はこのように憲法の死を宣言してから、「欧米社会の近代成立過程」「日本への近代システムの移植」「日本における近代の死」という本文へ筆を進めていくのである。

西洋においていわば下部構造の発達と、宗教改革によって力を得たプロテスタンティズム(予定説)が、神と民衆を直接の関係に結び、絶対的な神の下における神以外のあらゆる人間の平等を基礎付けて階級社会を破壊し、民主主義を推進した。自由を得た民衆の活動は、宗教的に正当化された利潤を拡大して社会は富み、富みをもって富みを拡大する資本主義は勃興した。

そのような西洋に追いつくという不可避の目標のために、日本においては旧来の尊王思想を高度に純化して一点に焦点を当て、天皇の下における国民階平等を実現した。神国日本としての仕組みを整理して予定説も導入した。もう恐れるものはない。伊藤博文の読みどおり資本主義の精神を短期間に纏い日本の奇跡の近代化は加速した。

さて、日本における近代が死んだのは、著者によれば日本の近代システムの機軸たる天皇教を廃止したこと。すなわち天皇が神ではなくなったことに全ての源泉を汲むという。近代システムの機軸を欠いたところへ、近代憲法をもちこんだGHQの誤解(WASPを欠いたアメリカのようなもの)が、今日の日本における憲法の死とアノミーをもたらしたという。機軸たる超越者を置かない階平等、宗教性を欠いた近代などありうるはずが無いと著者はいう。

納得できる分析である。まったくそのとおりであろうと思う。

しかし、あの近代、あの民主主義、あの資本主義に戻る方法は定かではない。同じ道は歩めないだろうと思う。一度破綻しているし、このように情報が瞬時に体に回る現代においてあのように純粋にはもうなれない。また、あの時代に引き返すことが採るべき道か、それは甚だ疑問である。

結局その先が、すなわち死んだ憲法を蘇生する方法が本書で示されるわけではない。著者も次のように念を押すところである。

「戦後日本のそもそもの失敗もそこにあった。日本人はアメリカが与えた憲法があれば、民主主義が手に入ると思ってしまった。」
「今から150年前の日本人は、浦賀沖にペリーの黒船が来たとき、「このままでは日本は滅びる」という現実を直視しました。」
「今の日本は、まさにそれと同じです。このままでは日本は滅びるしかない。」
「今の日本に憲法もなければデモクラシーもない。それは明治維新と同じではないですか。少なくとも、あのときの日本人は明治維新に成功した。彼らにできて、われわれにできないはずはない。」
「その覚悟ができたら、次は自分なりに考えて第一歩を踏み出すのです。」


護憲改憲言っている場合ではない、憲法を知って、本邦につき憲法も近代もそもそも死んでいるという現状認識と、その先を考え実現するのは自分たちなのだというリアリティを肌身に刷り込むことが本書の目的であろう。

改めて目を通してみて、およそ目的を達しうる内容である。

2008年5月29日 00:01

アマデウス。

映画を観た。アマデウス。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。アマデウスはそのミドルネーム。すなわち、この映画は、若くして没したモーツァルトの後半の人生を描く。ウィーンに住まうようになってからの半生。

この映画、1984年に大ヒットしたらしい。私は1973生まれだから、映画を見る環境も知性も財力も持ち合わせていない頃のもの(大袈裟)。四十代くらいの方ならば、あーあの映画ね、となるのかもしれないが、私にとっては新鮮である。映画華やかなりし頃の作品をリアルタイムにしていない年代の私にとっては、これから初々しく楽しめる作品も多いわけで、それはそれで良いことである。

さて、史実はともかくとして、映画の筋は、ウィーンハプスブルグ家の宮廷音楽家サリオリが、ウィーンに降り立った見紛うことの無い天才、モーツァルトを追憶の中で語るというその語りが、映像となって展開される。

時折宮廷と接触するモーツァルトが、結局のところ宮廷に就職することが適わず、街の音楽家として種々の食い扶持をつないで貧しく生き、反面サリオリは宮廷音楽家としての地位を保存しつづけるのであるが、、、そのサリオリ自身が誰よりも、モーツァルトの才能に気づき、共鳴し、それを畏怖し、打ちのめされ苦しむのである。そう、宮廷にふさわしいのはモーツァルトであると。サリオリは皮肉なことに、自己は才能を持たぬが、才能を見定める能力に人一倍秀でていたのである、、、

この映画の命題は、才能、天賦の才である。

世の中には、天賦の才を持つものがいる。
才能を持たぬが、天賦の才を見定めるものがいる。
そして大多数の、一切を持たざるものがいる。

「才能などなくてもおよそのことはできる」
こういう、これまた命題がある。
嘘ではない。「およそ」のこと、その意味内容はそのものがよって立つ社会によって変わる。日本であれば「およそ」職を得て、毎日のご飯を食べ、寝泊りをする宿をもち、生命身体の危険にさらされることのない生活を送ること、その程度はきっとできる。努力をして、選らばざれば、という条件付ではあるが。

しかし「およそ」ではない領域は毅然として在る。その領域を生きるものは時に想定され時に神の配剤によってこの世に生れ落ちる。
人間は決して平等ではない。生まれもって豊かなものや、生まれついた血統があるように、天賦の才は、それらと同じように顕著な仕方で存在するのだ。

アマデウス・モーツァルト。天賦の才を受けたもの。その光は余りにも強く、あまりにも広く世界を照らすので、それに包まれた同時代の人々は、その光の輝きを、異なりを、他の光と分別し見出すことが出来ないのだ。同時代において貧しい天賦の才は、音楽にも、哲学にも、その他にも後代によってよく知られるところである。

才能は才能故に苦しく、
才能を分別するものは、才能を持たないことに苦しみ、
そして全てを持たざるものは、凡庸な生活に苦しむ。

楽しみは、喜びは、それに対応してそれぞれにある。


「結局人間は、喜びも苦しみも総合的に分配を受けているのだから、自分が定められたステージで、それぞれに一所懸命生きるしかないのだ。それしかないし、それでいいのだ。」

この映画は、華やかなオーストリアの宮廷生活や当時の文化をきらびやかに描いて、躍動感をともなって加速度的に物語りを駆動させながら、また才能という鋭利なモチーフを攻撃的に用いながら、実は一遍を通じて、普遍的でゆったりとした大河のごとく、以上ようなメッセージを提出しているように感じた。

2008年5月14日 20:46

ルーブル美術館展他。

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたか?今年は稀に見る晴天続きで、休みがしっかりとれた方にとっては、そしてきっちり計画を立てられていた方にとっては、気持ちよく過ごせたのではないか。少なくとも、気持ちのよい自然環境は整っていた。

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休みの後半に、ルーブル美術館展に出かける。
神戸市立博物館で催されていたもの。

主催は、神戸市立博物館、ルーブル美術館、朝日新聞、朝日放送。
後援は、外務省、文化庁、フランス大使館、BS朝日。

日仏交流150周年を記念して、ルーブル美術館が有する美術工芸品のコレクションのうち、フランス宮廷が最も輝いた18世紀、ロココ(ロカイユ)から新古典主義に至るまでの選りすぐりの140点を紹介するもの。

当たり前だが、間違いなく素晴らしい美術品ばかり。7月までやっているので、観たことがない方はぜひ。ルーブル御大を拝んだことのある方も、ぜひゆっくりと。

さて、行かれる方は、必ずカタログを買われたし。とても充実しています。展示品すべてについての詳解、その他巻末についている三本の論文が秀逸。それから、まさに最後に、ブルボン家、ハプスブルグ家の家計図、及び同時代の関連年表が掲載されているので勉強になる。

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カタログの論文のタイトル。
1 物語を語る
2 ポンパドゥール公爵夫人が宮廷人として必要とした技術と学術
3 マリー=アントワネットと日本

これを読んで唸る、、、

それから、実際に展示を見回っていて、美術品横に掲出された、説明文というのか、解説文というのか、それを読んでも、いちいち唸る、、、

そして、物理的にも心理的にも、しばし立ち止まるのである。

この唸りの根拠は、なるほどと理解、首肯して深く気持ちよい感情から出でたものと、知識教養不足によって完全に切り返されて苦しい気持ちから出たものと、その二種類がある。そして後者が一定積み重なってくると、「勉強しないといかんな」という気持ちにせっつかれて、美術品の鑑賞行為自体にも、苦しさが染み出してくるのだ。

先の論文3 マリー=アントワネットと日本に記されているのは、フランス本国におけるマリー=アントワネット理解(現代変容しつつあるものの)と、日本における同理解には相当の乖離があって、それがどこから来るのかというものだが、結局のところ、日本人は、中学、高校の教科書において欧州の歴史をほとんど学ばないところに起因していると。早速後日本屋にて教科書をめくってみても、やはりフランス革命が「数行程度」で語られている。これでは美術品の背景を理解することなどできない。その数行すらまともに履修しない注意散漫な学生、すなわち自分、いわんや、である。社会人になって、多少の知識を入れたとしても、宮廷の内情までは、、、ねっ。

そんなわけで、まあいいやで済ませればいいのだが、それで良しとしないのが抗えぬ「サガ」であって、これから少しは勉強していきたいと思う。もちろん、宮廷人でもない私は、「そんなこと」ばかりしている訳にもいかないが。

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それから休みの後半には、以下目的に応じて、それぞれの店で食事をする。
いずれも、北野の伝説「ジャンムーラン」の血を引くもの、らしい。

1 事務所の食事会に、心斎橋の「リュミエール」
2 妻との食事会に、北野の「シェ・ローズ」

どちらも素人が評価するなどおこがましい素晴らしいお店だと思われ、よって、素人にも十分に良さが伝わるという点においてだけ、素晴らしいとお薦めしておきたい。

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