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2011年7月19日 22:46

志摩旅行。

連休に,家族で志摩旅行に行ってきました。久しぶりに全身に太陽を浴びて,とても気持ち良かったです。志摩はやっぱり南国ですね。伊勢よりも南にあります。

この度車でゆっくり巡っていて,側道の植物の豊かであることに驚きました。昔からよく見る南方の風景なのですが,これは実に驚くべきことなのではないか,などとしみじみ感じました。緑が鮮やかで,色濃くて,艶めかしく,力を持て余すようでいて強い。

宿では,窓から眺められる遊園地の灯や,花火の儚い勢いが夏を表していました。

娘が,いろんな歌を歌ってくれます。テレビで習う歌,DVDで習う歌,そして幼稚園で習ってくる歌など。

 

兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今も めぐりて 忘れがたき 故郷

如何にいます 父母 つつがなしや 友がき 雨に風に つけても 思い出づる 故郷

志を果たして いつの日にか 帰らん 山は青き 故郷 水は清き 故郷

 

上は娘が特に気に入ってよく歌ってくれる歌です。すごく上手です。聞いていると,だいたい三番目の途中で涙が滲んできます。よく耳を澄ましているときは,二番目に入れば涙が溢れます。

日本人の記憶は,自分独りだけのものではないと感じます。

 

2011年4月10日 18:32

琵琶湖から叡山へ。

琵琶湖に行ってきました。琵琶湖の湖南まで王寺町より車で1時間20分程度です。義務的に通うには遠い距離ですが気が向いたときに遊びに行くには驚くほど近いです。その距離の気軽さと,得られる非日常感のバランスが,とても高効率です。

奈良県は緑多く自然条件に優れ,歴史も豊かに,まったく生活するのに最善の地であることを疑いませんが,ときに大きな海が眺めたくなります。琵琶湖は海ではありませんが海のように大きいです。水面が,海のように輝きます。

子供は船に乗りたがります。内海に突き出す突堤の先へ手を引いて歩きます。船に乗って,もう少し遠くへ,水平線の向こうに手を伸ばしたいのでしょうか。手を引かれる大人は,最近は,内なる心の水面を澄まして,居ながらにして遠くを知るように行動したいと願います。

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叡山の根本中堂と法華総持院に登ってきました。子供をおんぶしたり抱っこしたりしてここに登るのは本当にしんどいです。日本仏教最高の聖地には,やはり一人で登らなければなりませんね。

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2010年8月16日 19:41

今年の夏は。

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今年の夏は夏らしい夏だ。
暑い夏。とてつもなく暑い。空は,久方ぶりに青地を白い雲が占めている。吸い込むように青い,押し出すように青い,雲の白さもまたしかりである。

今年の夏は夏らしい夏を。
両親と妻子を伴って沖縄旅行に出かけた。両親にとっては初めての沖縄。私にとっては複数回の経験。遠方旅行のうちでは沖縄が一番数多く通っていて,ガイドブック程度の事情には通じているので気持ちも楽であった。

今回は恩納村のルネッサンスリゾートと,那覇はロワジールホテルに宿泊した。本島もここ15年ほどでリゾートホテルがいくらか建って,古いところのいくつかは閑散に追い込まれているようだ。現在のルネッサンスは,私の学生時分ははラマダといって本島で抜群の豪奢ぶりを誇っていたが,先に言ったホテル建設や時代の求めに従って多少の趣の変化を見せつつも,未だ本島リゾートにおける代表的な施設と言っていいと思う。今回15年以上を経て訪れて,あまりに変わっていないことに驚いた。メンテナンスがしっかりしている印象を受ける。

ところで遠方に旅行に出て現地でいつも感じることは,この施設,この風景,この青や緑を今度いつ見ることができるんだろうということ。もう二度と見ることがないのだろうかということ。そして見ぬ間に目の前のすべては,どういう風な時を刻んで,歴史を経験して,どのようにその姿を変えていくのだろうかということ。そして一番切なるものは,その姿の移ろいを,どうして自分は眺めることができないのだろうかという哀しみにも似た感情である。どうして永遠はないのか(いや,きっとあるんだという確信を含めて)。いつも,私は旅行の時折にそのような強い想いに動かされて,これが旅行の単純な喜びをいささか減殺し,また脅迫的に一枚の写真を写し遺させるのである。

今般の旅行は,還暦をとうに過ごした両親と,純粋無垢な時代を生きる子供たちを伴うが故に,とびっきりの楽しみに対応する大きな哀しみが,例によって旅程の道連れになる成り行きであった。

楽しい。哀しい。切り離すことができない強い想い。
澄んだ海にも,主なき首里城の朱にも,それらの想いは入り混じって滲んでいた。


さて,大きな旅行をした後の疲れた体に鞭打って,市民プール的プールにもすかさず足を運んだ。いやあ,久しぶり。今回は厳密には市民プールではなく民間の遊園地のプールであったが,ああいった風景をもつプールという意で,あえて市民プール的プールと言おう。

こちらはそれにしても人が多い。しかし非難はできない。なぜなら自分もその一員だから。お前が帰れと言われたら致し方がない。

浅いプールに人がいっぱい。波打つプールに子供がいっぱい。流れるそれにも家族がいっぱいである。きっと上空から眺めたら,人の頭と水面の割合は拮抗して,プールに人が集っているのか,たくさんの人がそれぞれにいくらかの潤いを持ち寄っているのか分かりはしない。

とても疲れるが楽しい。しかしこちらの水辺には哀しみの入り込む余地はない。核家族,わいわい,よいしょよいしょ,かき氷に焼きそばに食えないたこ焼き。これらに哀しみは似つかわしくない。

あ,一点忘れていた。このプールの賑わいからきつい夏風邪をもらったのであった。実証はしないが,きっとこのプールの水を通じてに違いない(ほんとか?)。

もっとも,夏風邪の身体的なつらさなど,旅行によって訪れるあの内的で切実なな哀しみに比べれば,実にたわいのないつらさに過ぎないのであるが。


追伸 風邪はほぼ治りました。

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この休みの初め、また友人の同業が所有する会員施設にお世話になった。家族旅行とする予定であったが、急遽先方の奥さんが体調を崩されて、私達夫婦と子供たち、友人とそのかわいい息子の六名での楽しみとなった。それにしても男親と小さな息子が奥さんを除いて二人で行動している姿は、何かしらの空気を感じさせるものだ。母親はいないのか、離婚して引き取ったのか、大変だ、などと傍らから見ているといろんな詮索が自然に胸に来てしまいそうな風情であって(こんな想像は私だけ??)、それだけ母親と子供という風景が日常で、よく適合するものなんだろうと思う。

現地につくとお決まりに白良浜に駆け出した。何年ぶりかな。この季節に来るのは初めてであるような気がする。昔通った浜は真夏の太陽の下にたくさんのパラソルで埋め尽くされている若者のそれ。数年前に来た浜はクリスマスの装いをして、暗い海の向こうから冷たい海風を吹き付けていた。今年は、澄み切った空と、夏を混じらせたすがすがしい春の空気と、子供たちの笑顔と。また格別の意味を付された白い砂である。

施設に戻って室内プールで子供を遊ばせた。親も遊んだ。
夜は中華料理にビールがよく合った。数杯空けて、ラウンジに場所を移して、ウィスキーを二杯ほどなめた。私の記憶にはない両親のこんな姿が、わが子の記憶にはやっぱり未来に残って存在するんだろうか。夜も遅くにいろんな色のお酒を次々にめぐってぐだぐだとしている親の姿は、どんな風な姿として思い出されるのだろうか。あまり格好よくはないことが簡単に想像されるのである。

翌日にはアドベンチャーワールドで動物をひやかした。観覧車に乗った。メリーゴーランドに乗った。一通り遊んだ。しかし子供は次へ次へ、未来へと進む。

あのおもちゃが欲しいという。おもちゃを買う。ひととき戯れて、すぐに次を求める。観覧車に乗りたいという。乗る。大騒ぎをして、降りると次へ向かう。パンダの乗り物に乗りたいという。大枚をはたいて飽きるまでまたがる。次を求める。

子供は手に入れたものをあっという間に理解して、自分の血肉にして、そして乗り越えて、先にあると信じる未知の世界を求めるのである。好奇心には限りがない。未来を求め成長を求める心(これこそが大切である)と、足るを知る心(これもまた大切である)。このバランスは思想上の大問題であるが、少なくとも子供たちには求める心こそが大切であるし、大人だってやっぱり求めたい。調和ばかりではつまらないのである。

さて、この旅行も、二日目の昼過ぎにゆっくりとお茶を飲んで早めの旅程を終えた。後ろ髪を引かれるうちに、まだ元気のあるうちに帰路につくのが何かと優れていることを大人たちは知っている。足るを知ることもまた大切であるとは、子連れ旅行を引き上げる際の大人たちの方便か。

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