突然ではあるが、家の料理が旨いのは幸せだ(別に女性が料理をするのが当然だなどというつもりはない)。いろんな幸せに気付く能力を段々と身に着けてきた私であるが、このような当たり前のことにも、ここ数年ようやくに気が付いたよう成長ぶり(有様)である。昔から嫁の飯が旨いとなんとかかんとかと言ったがこれは本当である。もっとも、料理だけが全てなどというつもりはなく、また私の妻に限っては能力は料理に尽きるものではない。冒頭より先回りの言い訳がが過ぎるようだが、ともかく妻は料理が上手く、そして実家の実母も料理が上手かったのであり、今は亡き祖母も非常に料理が上手であったらしいいうことが今になって判明しつつある。
もともと食べ物にはうるさいほうであったが、最近は私も大人になったせいかますますそちらのほうに敏感になった。例えば添加物のたくさん混じったものを食すのが非常に厳しくなってきたし、料理にどの程度の素材ものが用いられているかということが詳細ともかくなんとなく判別可能になってきた。特に化学系の混じり物がきつい。別に料理人でもないのに偉そうにと言われそうなものだが、料理を作ることが出来なくとも食べることは出来るのである。食べてわかるということは別に難しいことではないのである(名画の美しさを感じる能力を持つ人がいて、誰もそれを否定はしないだろう)。
料理は舌である。舌の感度。要するに、確かな事実認定ができるかどうか。味を確かめる感度とセンスがなければ何事をも為しえない。上手に料理を作ろうといったところで旨いもまずいもわからないでは仕様がない。これは何も料理に限ったことではない。事実認定にもとづく現状認識ができなければ、係る改善も、その先の目的を定めることも、一向に為しうるはずはないのである(わかったうえでするしないという選択の問題はあるが)。誰よりも包丁の取り回しが優れようともそれだけでは旨い出汁はとれないし、香るように煮炊きし、焼き上げることはできない。誰よりも早く強くバットを振ったところでホームランは打てず、筋力ばかり鍛えたって喧嘩には勝てないのだ。また年号をしきりに記憶するがが歴史に学ばず、作者と題名をしこたま覚えたところが一行も読まないで洞察に浅いのもこれに同じである(同じではないような、、気もする)。ともかく味がわからないではいけない。
もっとも、万人にとって旨いもの、真実として旨いもの、すなわち味に真理が存在するか否かなどというある意味で科学的である意味で哲学的な難問は究極的には追求されるべき問題ではあるが。
それともう一つ。料理は人が集って食べるとやっぱり旨いようだ。独りよりも二人、二人よりも三人、三人よりも四人、家族なら限度があるので適度な人数に至るまで、人数はたくさんいれば旨さも増すように思う。家も子供が二人になって、そして子供が少しずつ成長して、形だけでも食卓を囲めるようになって。料理のうえを何かしら言葉が飛び交わすようになるとやっぱりすこしだけ旨さや楽しさが増すようなのだ。
あれ、何だったかな、、、別に取り立てることのない当たり前のことを、、、確認してしまった。
さて、料理の旨さや家族の楽しさを今になって気付かせるほどに当然に生活に同居させてくれた両親に、今般そんな新しい視点において改めて感謝してみる。そしてこれからもそれは、幼くてやんちゃな顔を揃えた我が家に期待できそうに思うのである。
ただただ、妻や家族の腕と存在に寄りかかって。
















