ここ数日非常に寒い。年初から早起きを標榜している私としては、早朝の気温が氷点下になると非常に厳しい。布団から出るのがまず厳しい。廊下を伝って二回から階下へ降りる道ほどがまた厳しい。電気を点灯するまでの闇がなおさら厳しさに輪を掛ける。一杯の冷水がまた厳しく、洗顔の冷ややかさも当然厳しい。目覚めのシャワーに逃げ込むも、まずもって脱衣に厳しさが極まり(我が家の脱衣場に空調はない)、すぐ出ないお湯にしばしの厳しさがあるのであり、いざ暖かいお湯も、浴びたそばからにわかに厳しい冷えが襲う。着替えに厳しく、荷造りに厳しく、厳しいダイニングの冷気に摂取される朝食もやはりピリリと厳しいのである。
そんな冬の朝であるが、しかしこれに臆することなく立ち向かうひとときの裡に充実がある。そして一連の厳しさを各々克服して、「よし」と振り返る一瞬にこそ生き甲斐がある。楽しさというものも充実とういものも、本当の自由も人生も世界も、こいう一瞬にしか存在しないのではないかと思える。そういった克己に関する実感、将来への希望に関する予感をまさに受け止める一瞬一瞬の強烈な自意識の局面にしか存在しないのではないかと最近思っている。そんなことを考えていると、いくらかの実存主義や現象学が言わんとするこの世界の取扱いも実感できないでもなく、いや強烈なアクチャリティーを持ってくる今日この頃である。寒さは厳しくも楽しい。


前置きが長くなったがこの年初の三連休。意気込みも空しく、私個人としては比較的無為で平静に過ごした。奥さんと子供のほうは日常を過ごしたということになる。ところで私にとっては日常で、妻にとってはほんの少しの非日常で、連休の後半に自動車で富雄の焼肉店に外食を採りに行った。生駒や富雄といった奈良市の西部は、王寺で生活しているものにとってまだしもアクセスのよい奈良市であって比較的よく通う。といっても何かあれば大阪に足が向くのでそうそう訪れるわけでなく、また地元西和の周辺ですら大阪へ向かう足取りを一向に止めることができないでいるから、地域経済の発展などと言ってみたところでどうにもこうにもならない。
さて焼肉店「千久左」は豪邸立ち並ぶ鳥見町を下った鳥見通り沿い、富雄駅南の大規模駐車場から数十メートルの距離に位置して交通至便である。しかしそれにしても目立たない。大通りを入ってすぐの路面の看板を目印に雑居ビルの階段を目の当たりにすると、何やらアングラ(店は二階だが)な雰囲気すら漂っている。この対面に気が引けて引き返した人もあるとかないとか(独断)。ただ一旦入店してしまえば店内はそれなりに小奇麗で明るく、ママ(かな?こちらも独断)の笑顔はさらに明るく、味においては極度に明るいので何らの心配はない。鶴橋や生野や平野でおいしいのは驚かない。奈良市でおいしい焼肉を食べることができると少し驚く。そして楽しい気持ちになる。これが二つ目の楽しい週末である。
話は変わるが、皆さん晩酌はしますか。今は昔父親がサイドボードから焼酎やウィスキーやらを取り出してちびちびやっているのを、なんと奇異な儀式であろうと眺めた自分はどこへ行ったか、中年男の例に漏れず、私も晩酌が日々の面白おかしいゲームを終了させるホイッスル的儀式になって久しい。
儀式たるもの様式や形式がかかせない。私のフォームは単純ながらこうである。
① 夏はビール(昨今はサントリーのプレミアムモルツ)、冬は焼酎(麦であれば銘柄問わず)を食事と伴に適度に嗜む。
② 食後におかし箱からいくつか選び出して、それをあてに適度、ないし過度にウィスキーを頂く(やっぱりマッカランがメイン)。
酒には酔う。当然酔う。俺は強いから酔わないなんていっている人があるがそんなものは嘘だ。酒はある程度飲めば必ず酔うように出来ている。酔えば楽しくなる。哀しくなる人もあるようだが、私の場合は必ず楽しくなるから都合がよい。
一定程度進めば、寒さ厳しい折に触れられる生活の実感や世界像とはまた相違した、楽しく歪曲された世界が現れてくる。少し毛色の違った一瞬一瞬に鮮やかな七条の光が射して、それがほがらかなもう一つの世界像を足元から照らし出す。しかしこの世界が楽しく歪曲されているからといって、また係る世界がほがらかに過ぎるからといって真実でないとはいえない。そんな世界が真の認識でないとは、真の存在でないとは、決して言えない。ここに、三つ目に楽しい週末の儀式の大切な意味があるのである。
何を言っているのか判らなくなってきた。酒が過ぎたよう。ではまた。
