2009年ももう少し。来年は当たり前だが2010年か。平成の御世も、早22年を迎えようとしている。
今年は自身に第二子が生まれた。親族にも複数の子供が授かり、この点この上ない喜びであると同時に、病を患うものあり、見舞いの道中に人生の不思議や不合理を実感することもあった。
気がつくと、自身ももう36歳。この八月に満年齢を迎えた。来年は満にして37歳の年である。振り返ると、まだまだにわかに思い起される大学時代の狂騒や饗宴も、卒業より15年を数える背後に過ぎ去ろうとしている。この業界も早10年。一般的にいっても、また職業人としても、いよいよ「若い」などとは到底言えない年齢になった。ますますにして、初心と責任の相克に身を引き締めなければならぬ。
ところでこの年齢というもの。時間という哲理。思考しつつも現実生活を生きていなければならない我々は、これとどう付き合っていけばいいのか。
三島由紀夫はかつて、青春について、「何かを知ってしまった」ものはもはや青春を生き得ず、つまり青春とは年齢と非常な関係のあるものであり、すなわち何かを知る前の、比較的若年の、純粋なもののなかにのみそれを認めうると言った。しかし数々の歌舞伎に対する言及においては、係る芸というものについて、年齢と伴に昇華し、年齢だけが成立を助ける種類の技術の存在をもまた認めている。
対して小林秀雄は晩年、要するところ人間の思想とは年齢と正比例において立派に成り行くものであると述べている。折々の年齢においてしかるべき思想というものがあり、そしてそれはどんどん成熟する性質のものであり、まさにその年齢においてしか持ち得ない思想がある、いや誰しもそうでは有り得ないが、むしろそうでなくてはならないし、そうでなくてはよく生きたことにはならないという主張である。老人は老人として老人らしく立派でなければならず、近代の、若々しくあることが褒められるべきことであり、若者に迎合する精神こそ誉めそやされるという思潮(若者が権勢を誇り、老人がひっそりと暮らせば、社会的に優勢となった若者の思想を正しいものとして認定して迎合する弱い精神が出てくる)に対して、これこそ近代合理主義思想の最たるものであり、世に正解はひとつであり、主体を差し置いて客観的に唯一の正しい実在が世に存在するという迷信に淵源する間違った考え方であると弾劾した。若者は若者らしく考え、壮年はそれらしく、老人はまたそれらしく考えるのが当然であると。
さて、これは難しい問題だ。
人間が、生きて次に繋ぐ存在であるということを否定した哲理は存しないだろうから、肉体的な性的な魅力というものと、一定の年齢、あるいはその年齢に有り勝ちな瑞々しく魅惑する姿態を切り離すことはできないように思う。また一応において精神を肉体と離れて考えてみても、個人的な、社会的な進歩成長というものと、守るべき大切なもの、保守すべき大いなる何か、というものとの関係性は思想上の大問題であって、社会的には一定の結論が得られたとして、個人の取捨選択においては一体何らの指針もない迷妄状態である。年齢というものの難しさは、三島由紀夫の文武両道論の成功?あるいは挫折?、すなわち文(芸術、文学、思想、そしてそれらのものを追求する永遠性、永久性)と武(運動、現実行動、死、それらのものの厳格な一回性)との交叉点をいかに求めるかの困難、に帰する困難である。
、、とかなり脱線した。今日はこれから帰省しないといけないのに。
言いたいこと。中尾個人、肉体的には絶好調。勉強しなればならないことや追求すべきことが見え始めた年末より、来る来年に、一所懸命を誓うということ。
来年も宜しくお願いします。





