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2009年12月30日 12:13

年の瀬、36歳。

2009年ももう少し。来年は当たり前だが2010年か。平成の御世も、早22年を迎えようとしている。
今年は自身に第二子が生まれた。親族にも複数の子供が授かり、この点この上ない喜びであると同時に、病を患うものあり、見舞いの道中に人生の不思議や不合理を実感することもあった。

気がつくと、自身ももう36歳。この八月に満年齢を迎えた。来年は満にして37歳の年である。振り返ると、まだまだにわかに思い起される大学時代の狂騒や饗宴も、卒業より15年を数える背後に過ぎ去ろうとしている。この業界も早10年。一般的にいっても、また職業人としても、いよいよ「若い」などとは到底言えない年齢になった。ますますにして、初心と責任の相克に身を引き締めなければならぬ。

ところでこの年齢というもの。時間という哲理。思考しつつも現実生活を生きていなければならない我々は、これとどう付き合っていけばいいのか。

三島由紀夫はかつて、青春について、「何かを知ってしまった」ものはもはや青春を生き得ず、つまり青春とは年齢と非常な関係のあるものであり、すなわち何かを知る前の、比較的若年の、純粋なもののなかにのみそれを認めうると言った。しかし数々の歌舞伎に対する言及においては、係る芸というものについて、年齢と伴に昇華し、年齢だけが成立を助ける種類の技術の存在をもまた認めている。

対して小林秀雄は晩年、要するところ人間の思想とは年齢と正比例において立派に成り行くものであると述べている。折々の年齢においてしかるべき思想というものがあり、そしてそれはどんどん成熟する性質のものであり、まさにその年齢においてしか持ち得ない思想がある、いや誰しもそうでは有り得ないが、むしろそうでなくてはならないし、そうでなくてはよく生きたことにはならないという主張である。老人は老人として老人らしく立派でなければならず、近代の、若々しくあることが褒められるべきことであり、若者に迎合する精神こそ誉めそやされるという思潮(若者が権勢を誇り、老人がひっそりと暮らせば、社会的に優勢となった若者の思想を正しいものとして認定して迎合する弱い精神が出てくる)に対して、これこそ近代合理主義思想の最たるものであり、世に正解はひとつであり、主体を差し置いて客観的に唯一の正しい実在が世に存在するという迷信に淵源する間違った考え方であると弾劾した。若者は若者らしく考え、壮年はそれらしく、老人はまたそれらしく考えるのが当然であると。

さて、これは難しい問題だ。

人間が、生きて次に繋ぐ存在であるということを否定した哲理は存しないだろうから、肉体的な性的な魅力というものと、一定の年齢、あるいはその年齢に有り勝ちな瑞々しく魅惑する姿態を切り離すことはできないように思う。また一応において精神を肉体と離れて考えてみても、個人的な、社会的な進歩成長というものと、守るべき大切なもの、保守すべき大いなる何か、というものとの関係性は思想上の大問題であって、社会的には一定の結論が得られたとして、個人の取捨選択においては一体何らの指針もない迷妄状態である。年齢というものの難しさは、三島由紀夫の文武両道論の成功?あるいは挫折?、すなわち文(芸術、文学、思想、そしてそれらのものを追求する永遠性、永久性)と武(運動、現実行動、死、それらのものの厳格な一回性)との交叉点をいかに求めるかの困難、に帰する困難である。

、、とかなり脱線した。今日はこれから帰省しないといけないのに。

言いたいこと。中尾個人、肉体的には絶好調。勉強しなればならないことや追求すべきことが見え始めた年末より、来る来年に、一所懸命を誓うということ。

来年も宜しくお願いします。

2009年12月29日 11:08

クリスマスツリー。

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ジョン・コルトレーン「BALLADS」(MCA Records)

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加羽沢美濃他「ピアノ・ピュア/クリスマスメロディーズ」(日本コロムビア)


クリスマスは楽しい。最近とくにクリスマスを楽しむことに躊躇などなく。
クリスマスなんて、などと浅薄に言ってみたところで、ドイツやフランスの法や医学に完全に日常を纏われ、英米模写の議会や服飾やカルチャーに浸潤され、現行憲法に何ら異を唱えず、はたまた和漢混交文でそれを言ったところで笑止というほかはない。

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今年のクリスマスは、初めて自宅にそれらしいツリーを用意した。
婚姻前の実家は和の住宅でツリーに似つかわしくなかったし(だから飾ってはいけないということはないが)、また独立後の賃貸マンションは狭さと生活のあわただしさでそれを忘れさせたしで、借家の洋式住宅に過ごしている今年は是非飾り付けをやってみようとのことで、なんとかかんとか形を付けることができた。

しかしさて飾ると決意するとどうしたらいいのかわからない。当初は勢い込んでネットで業務用のそれこそ天井に届きそうなものを物色したりしていたが、やっぱり価格的にも現実の用途としても無理。結局イオンにいって躯体を買って、それからトッピング??をたくさん物色して、家族で(といっても主に夫婦。子供はもっぱら邪魔をする役割)わいわい言いながら飾りつけをした。

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これ、別にたいしたことはない作業だが、冷静に何を選ぶかをチョイスしたり、また飾りつけを行う段になると、また工程がわからない。え?クリスマスツリーって何がひっついていたかなあ、色調はどうだったかな、ライティングはどうするのだろうという具合で、普段いかに綺麗だ綺麗だ言いながら微細に見ていないものかということに気付く。

なんとかかんとか飾りつけをしてみると、イオンで購入したにしては(別に馬鹿にするわけではないが)なかなかの出来。今年をもって、ツリーというものの構成要素??がようやくわかってきたので、来年は間違いなくより綺麗なものができるはず(時間があれば。気力があれば。また度を越して装飾しなければ)。

それはそうと、飾りつけの翌日。帰宅した私に子供が口を開いて言うには、「見て!!これ○○っちゃんが作ったんだよ。しゅごいでしょー!見て!」云々を数分間。その身振り手振りや表情を見るにつけ、「このツリーは○○ちゃんが独力で頑張って自作したものでありその努力や成果たるや目を見張るものであるからパパはそれを見て綺麗と思うのみならず○○ちゃんの頑張りを相当程度に褒め称え賛美するべきである」という思いが判然と押し出されている。

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いやいや、、、パパがつくったような、、、気が、、あくまでも気がします、、、
いやはや、子供の生命力、利己主義、自己顕示欲にはいつもいつも驚かされる。少々見習わなければいけない。

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それにしても子供の成長は早い。子供を抱っこして、少しお酒を飲んで、暖房を強めに焚いてゆっくりしていると、いかにもそれらしい、真っ当な、表の幸福に落ちそうになる。眠りに落ちそうになる。このままひとときの幸福に運ばれて、永遠に到達しそうにも思われる。

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しかし人間そんなにわかりやすくはないのだ。食事を終えて冷たい書斎に上れば、急転酒気にも冷気が混じる。冷気は酒気を圧倒する。

少しなりとも本を手にとってページを繰れば、先刻までの表の平穏のその裏から、怠惰、欲望、自堕落、自信の過剰、不安の過剰、自己嫌悪、エロチシズム、灰色、黒、透明、残酷、冷静、、、様々な観念が、、、それらの渦が怒号をたてて裏面から表を侵そうとする。先刻まですべてを占めた永遠はひとときに瓦解する。文学的には自意識の問題か。白だけでは生きる意味がない。黒が過ぎれば塀の向こうに落ちる。それら表裏の行き来において、その狭間にのみ、人生の真のモチーフが滲む。人間とは何と恐ろしく不可解なものか。

クリスマスは何処へ行った?しかし裏からの力は強ければ強いほど、漆黒の塗りの重層は表一枚の輝きを増すのだ。クリスマスツリーに流れる眩い輝きを増すのだ。

黒はそうっとしておけばいい。黒は黒であるが故にこんなところで書かれる性質のものではなく、どんなところでも公にされることはなく、言語化すら憚られるものこそ真の漆黒である。

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だからせめてクリスマスなどというものは、四の五の言わずにツリーも食卓も着飾って、楽しく何かしらお祝いすればいいのだと思います(強引に過ぎる)。

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2009年12月29日 10:52

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