今年も五月が終わりましたね。今年は事務所のほうもゴールデンウィークとして、五月は二日から十日まで休んだので、職業的には本当ににわかに過ごした感のある五月ですが、私的な方面もなんだかんだで気ぜわしく小事が追ってきて、それをやっつけているうちに、やはり総じて四月から六月に向けて忙しく追い出されたような、そんなひと月でした。
ところで先週だったか、ある晴れた日に、近所の馬見丘陵公園に行ってきました。家族とともに、陽射を、涼しい風を、運動を、それぞれに求めて。
しかし涼しい風はまったくそこには無かった。代わりに鋭い太陽の直射があって、それに少しひるんで坂道を少し登った木陰に移ると、直射は繁った緑に薄められた何層ものレースに変わった。その小高さから見下ろしたところには小さい池があり、光のレースの向こう側には、深緑のみなもが、同じ根拠の直線的で鋭い光を、目の前のレースとは違った仕方で弱め、ちりばめ、寂として美しい複雑へと化していた。ほんの一瞬間に焦点された美しい光。暖かい光。少し移ると相変わらずまばゆい光が射していたが、それはもはや、さっきほどの美の切り出しをもってはいない、、、
春の美しさ、五月の美しさとは、きっとそのように眺められるものだと思います。感じるものは、その一瞬を捕まえて、過去に未来に、永遠に、洗われ、希望し、欲望せざるを得ないようなもの。
五月の美しさ。それはひとときに閃く生命それ自体の美しさ。生成の、芽吹きの、恋・愛への暖かき強き欲望。あらゆるものの健全な欲望が、清らかな形で立ち上がり、物心に満ち満ちて互いにその表象と内実とを交換する。
五月はいつもいいですね。静かで、尚に元気があって。
その過ぎ去るを惜しむ、係る次第で、この月の後半には、愛に関する以下のような本を読んで見ました。少し感想がてら書きますが、脱線して際どさに落ちたら、五月に免じて簡便してください。
○プロローグに代えて
ニーチェ「五月の歌」『ニーチェ全詩集』(人文書院)
以下、ニーチェ叙す。
小鳥たちのさえずりは
歓喜にみちて、森の奥深くにいたり、
野原は、やさしい五月の陽光に
照り映えてひろがる。
花咲く野辺を、
小川がさらさらと流れ、
雲雀は高らかな歓びの歌声をそえる。
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?
ぼくらの心のなかで、悲しみ、
ためらい、打ちひしがれていたもの、
ぼくをとりまく荒涼とした怖るべきもの、
いま、これらのものは白日のもとにすきとおる。
花々の乱れ咲く草原では、
いま、花々はやさしく羞いつつ花ひらき、
蜜蜂がぶんぶんとそのなかを飛びまわる。
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?
純粋なる至福の
果てもしらぬ充満よ!
おお 無上の快楽よ! ぼくの心に
ぼくの苦悩の衣をまとわせよ!
春風のように、おまえの心に
さやさやとそよぎこまぬものを
消滅せしめたまえ!
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?
この悦楽の大海原に
ぼくはわが身を沈めたいと思う。
甘美なその思い出を思うだに、
たちまちにぼくの胸は喜びに高鳴るのだ。
おまえを抱擁して、もはや
二度とおまえを離したくはない。
おお 春よ、吹き込んで来い!
五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものはありえない!
○エロース=あまりに清らかな
三島由紀夫『潮騒』(新潮文庫)
潮騒を読む。もう五、六回読んでいるが、また読みたくなった。一連の三島由紀夫の小説に一点爽快な青い空の趣によって異彩を放つストレートな長編。これはまさに疾走である。永遠の形式美である。主題として離島における純朴な若者の恋愛を描く。今般改めて熟読し、感銘した。数時間の余り何もできなくなった。
幾度にもわたり原作として映像され知れ渡った本作の、文庫における裏面にはこのようにある。
「潮騒と磯の香りと明るい太陽の下に、海神の恩寵あつい若くたくましい漁夫と、美しい乙女が奏でる清純で官能的な恋の牧歌。人間生活と自然の神秘的な美との完全な一致をたもちえていた古代ギリシア的人間像に対する憧憬が、著者を新たな冒険へと駆りたて、裸の肉体と肉体がぶつかり合う端整な美しさに輝く名作が生まれた。」
これをもって、純粋のオーセンティックの青春小説だとある人は言う。
入念な取材旅行とギリシャ小説の底本による形式の忠実な履行だとまた人は言う。
全くそのとおりだろう。しかしそれがこの宝物の価値をいささかも減じるものでないことは、それら指摘に汲み尽くせぬ溢れんばかりの美の充実の目に疑えぬことを、万人がほろ苦くも認めざるを得ない由であろう。著者もまたそれを認め、目指し、獲得せんとしたものを獲得したのだ。
青春の本質とは何か、青春に別離した人生の深淵を語りうるか。究極の形式美の追求は自ずから内に篭めたる個性のきらめきが、終局の分水嶺たることの明らかなることは、ここでは長々と語るまい。
さて作中には、混じりけのない男と女のやり取りがある。それは、精神の強い力に、肉体の熱い希望に、断続的に支えられ堅固に強められていく。岬の紺青をさえぎるものがないように、この恋の本当を限るものはない。
女性の美しさと強さは、数少ないキャストの身体的稜線の描写を通じて、またつわものを恐れない女性行動の実直の叙事を通じて、鮮明に描出される。海において、乳房の描写はいかにもすばらしい美である。官能と美は判然等しいものである。
豊饒な自然との抜き差しならない日常も、そこから当然に導かれる神とのいと親しい交換も、全編にわたって通奏されるモチーフだ。
しからばこれは、禁じられた愛や神の問題を、珍しく概念的にではなく、極めて密やかに簡潔に、生活に生きて見せることに奏功した真の芸術であり、著者の代表作であると信じて何らに差支えが無いのである。
大人であればこそ熟読玩味すべき文庫百八十頁足らずの記述。いかにも涼しげ、しかし実に妙。―
○エロース=肉体の
谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫)
これも有名。
主人公たる会社勤めの譲治は、とあるカフェーで女給として稼動していた西洋的豊満の息吹を蔵する少女ナオミを見出し、これを引き取ってともに住まい、育て、麗しく成長すればやがて嫁にとることを企図して生活を始めるのであるが、やがて妖艶に成熟する肉体に悩まされ、その愛欲の奴隷となっていく。ナオミの妖艶は知性も道徳もともなわず世間にあけすけと開かれていき、夫となった譲治の一筋の愛を尻目に、密やかに、また公然と、数多の男を渡るようになるのだが、愛欲の恐るべき魅力は、規範的な譲治の正当な批判を軽々と蹂躙し、悪魔的な足かせとなって、譲治を服従せしめる、、といったような筋である。
著者の、くどいようにしとしとと嘗め回す記述が、もう一人の主人公たるナオミの、どっしりとした量感のある官能を、間接的にではあるが直接に、いわれぬように伝えている。一度はこれを味わうべく、目を通していただきたい作である。
ところで、本書のモチーフは見紛うことなき愛欲であるが、愛欲であろうと、また別途の欲望であろうと、およそ欲望に対し人間が処すべき態度には、以下のような段階を立てることができそうである。すなわち、
1 盲目的に求める段階
2 規範的に律する段階
3 開かれてともに生きる段階
人間はまずもって欲望に開眼し、その味を知り、その海に溺れる。欲望は直接的であり、全的であり、世界はこれに支配される。続いて人間は、欲望に対する経験的な慣れによって、いや主として社会的な要請によって、欲望を規範的に律する。規範が欲望を屈折せしめ、その頭は押さえつけられるが、欲望の力は何ら衰えを見せてはいない。社会と道徳の規範の麓で、永遠の轟を響かせているのだ。多く人間は、この段階に生きるように思われる。しかしその先に、真の理性は、この欲望の力を認め、いや屈服し、人生の機敏はそこにこそ存在することを理性的にも直覚し、ともに生きることを選ぶ。社会の規範を正面から乗り越えるもの、規範の裏側を歩くもの、別の路からこれに達するものと仕方は様々であろうが、欲望の充足と人生の目的は、ここに至って再び同心円を描くのである。
本作中、主人公たる譲治は、ナオミの美をはたと認め、大人の策動をめぐらしてはいるもののなお素直な仕方でナオミを愛し、育てる。妖艶に成長する肢体、肉体に、一心に欲望を見る。身を交わしてよりは当然のことである。しかし、ナオミの奔放を疑い、確信して、譲治は駆け足で規範的な段階に到達する。規範意識、社会的地位、その他一切のルールを怒涛のごとく侵食され、譲治は当然の成り行きとして、ナオミとの決別を決心する。しかしナオミの官能は譲治の全能を束ねて揺るがない。譲治はやがてそれに屈服し、もはやそれでいいのだと思い做し、苦渋と官能との合一なき同居を受け入れるのである。
どうであろう、作中で譲治は、欲望への処し方において、足早にまさに天理に適う足取りを歩み、立派に成長した(?)とも言えなくは無い。
ところで坂口安吾は、その「恋愛論」や「悪妻論」において、愛欲について、およそこれと同様の結論を結んでいるように思われる。あまりに興味深いのですべてを読まれたいが、一部抜粋するにとどめ、これをもって谷崎潤一郎の肉体の書の感想の締めに代える。
坂口安吾『堕落論・日本文化私観』(岩波文庫)
「ゼスス様は姦淫するなかれと仰有るけれども、それは無理ですよ。神様。人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思いあたわぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれども、からだには翼がないから、天を駆けるわけにも行かず、地上に於いて巣をいとなみ、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。あたりまえだ。こういう無理を重ねながら、平安だったら、その平安はニセモノで、間に合わせの安物にきまっているのだ。だから、良妻などというのは、ニセモノ、安物にすぎないのである。
然し、しからば悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情淫奔、ただ動物の本能だけの悪妻は始末におえない。然し、それですら、その多情淫奔の性によって魅力でもありうるので、そしてその故にミレンにひかれる人もあり、つまり悪妻というものには一般的な型はない。もしも魅力によって人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によって亭主の心を惹くうちは、良妻なのだろう。
魅力がない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである、男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせいとすれば、この頭の悪さは問題の外だ。
才女というタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。つまり学問はあるのかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異ならぬ。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。、、、」
○エロース=男色の
福島次郎『三島由紀夫―剣と寒紅―』(文芸春秋)
この本は、久しく前にお客様より借り受けて、読了半ばにそっとしておいたものである。今般やっとのことで了と為す。まず何よりも、少し長く拝借しすぎたきらいについて、お客様に謝罪を申し上げなければなりません。すみませんでした。私のお渡ししましたものについては問題ございません。また六月に、本書をお返しする折にでも、そのほか別の機会にでも、お受けいたします。
さて内容。学生時代より三島由紀夫に心酔し、その延長が師事と為し、遂にはその私邸に出入りして、若き三島由紀夫と、そして両親共々の付き合いを行った経験をもつ著者(晩年は特殊な間断的な関係へと変化していた)が、「不世出の天才的作家」として賛美され尽くした三島由紀夫の、一面「人間として迷える羊」でもあった三島像を世間にあえて提出し、これこそが三島由紀夫の本当の供養になるのだと言辞して始める著者いわくの「小説」である。
ここに言う「人間として迷える羊」であったとは、主として、三島由紀夫の男色の性向、その遍歴、性行為、これが著者との間で行われ軋轢を生むその過程を専ら指しているのであって、「不世出の天才的作家」としての三島由紀夫の創作、自問、葛藤などには決して触れられていない。こちらのほうは一向に迷ってなどおらず、迷っているとしてもそれは著者の知りえない高みにおいて自問の形式の中で行われていたことすら匂わされており、さすれば迷える羊たる一面は、天才的一面の直行を何ら障害するものでも、転回するものでもなく、これがために三島由紀夫の供養が善く進むとの序章における言辞は、どうにも妥当しないように感ぜられる。結局本書の望むべくは所謂禁断の暴露、所謂不世出の天才との関係性を誇示するもの、これら域を脱することができないものだと思われる。
しかし図らずもこの書が、著者の意図から去ったところで、三島由紀夫の精神の機敏、細やかな優しさ、本質を見る勇気、忍耐と克己、愛するものへの心遣い、といった多様な積極を十分に表現しており、「不世出の天才的作家」という明るみに出尽くした表の顔と身体に、さらに肉付けをほどこし、側面から支柱してさえもいるという逆説は、まさに本書所有者の批評するとおりである。
ところで、美しい男子を愛でるというそのことはギリシアの哲学や文学に明らかなように、はるか聡明な文明において、かつて美しい欲望であった。ゲイや男色が、これと系列を同じくするものなのかそうでないのかはよく分からないが、ともかくも私にはその性向が一体判らない。
しかし私が美しい女性を愛するように、男を愛する感情がそのようにあるのならば、それは致し方がないのであるし、それは切ないのであろうし、それは男が女を愛し女が男を愛すると同様に、世に最も尊重し、大切にされるべき精神作用に他ならないだろう。
そうしてみれば、この書はともかくも愛するものに対し、かように真摯に、繊細に、誠実に対した一人の男の、それなりに詳細な事実の記録だと考えれば足る。
○エロース=イデア(真実在)
プラトン『饗宴』(岩波文庫)
パイドロス、パイドンと並んでプラトンの代表的対話編である。議題は愛・恋(エロース)、背景は文字通り宴。酒を飲んで議論することは、ギリシアからの営みである。それなら我々が止むを得ないのも仕方がない。
宴においては、エリュキシマコスの提案に応じエロースについて演説すべきことを一同合意する。果たして、ファイドロス、パゥサニアス、エリュキマコス、アリストファネス、アガトンという出席者が弁じ、最後にソクラテスが更なる間接説話の形式で大演説を為すのである。
ある者はエロースは最古の美神であり恋するものは恥ずべき行いを決してその対象に見られることを欲しないだろうところから、エロースは徳をもたらすと言う。あるものはエロースを高貴な精神的なものと万人向けの肉体的なものに分類する。そしてある者はエロスを宇宙的に拡張しあらゆる秩序はエロースによって保たれると説く。
転じて別の演説者は、エロースの本質は、神によってかつて一つが二つに引き放たれた人間は、やがて一つになる本質的欲望をもつものであり、本来相互依存の関係にたつ者を求め実際に結合を果たすことであると弁じる。やがてソクラテスが静かに弁舌を開始する。冒頭ソクラテスは、既に為された弁舌の根底を揺るがす。全ての演説者の演説は皆等しく独断に根拠を置くものであり、単なる言葉の遊戯に過ぎないのだと強烈に批判する。
そしてソクラテスは、哲学をもって弁じる。愛・恋・美(エロース)とは所有しない者に対する憧憬、渇望であるとするところから内容をはじめる。通常所有しているものは欲しない。所有していないものこそ欲するものである。すなわちエロースは美への欲望であるから、エロース自体は所有しないものである。所有しないものは神ではない。完全性を欠くからである。エロースはむしろ、完全と無知との中庸にあって、美しき知恵を愛し求めるものである。エロースは美しき知恵、幸福を求め、どこまでも、これを永遠に所有せんと欲する。永遠の所有には欲するものの永遠の命が必然である。必滅者たる人間がそれを求めんとすには、生殖によって個体の延長をはかるのほかはない。そしてエロースは美しきもののみを求めるものであるが故、生殖においてもまた美しき肉体を求めるのである。しかし不死の美しさは肉体にとどまるものではない。それは芸術や学問という精神的なものを経て、最後に至高の美の原型、絶対美のイデアを見るに至る。エロースは遂に、理性の永遠の情熱、フィロソフィアの形をとるのである、、、
私はプラトン研究者でないのでなかなか真に至らないが、今後別訳や周辺をもあたうかぎり読んで、少しでもその言わんとするところに迫ってみたいと思う。
○エロース=その先にあるもの
三島由紀夫『岬にての物語』(新潮文庫)
「その性向は乾燥し寿衰えつつも、今なお根強く残っているが、幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費やすことをも惜しまぬような性質であった。夢想がその内実の全てに影響を及ぼしている特殊な生活を体験したことのない人にとっては、それは危険以外の何物とも見えないから、、、」
二十歳の大ロマン主義作家たる三島由紀夫は、その幼き時代の自己の明晰すぎる感性を、主人公のわずか十一歳の少年に仮託して物語は開始される。
「夢想は私の飛翔を、一度だって妨げはしなかった、、、」少年は夢想のままに、その美しい母に連れられて、妹とともに、明媚な風光、ほとんど非の打ち処のない風景を奏でる房総半島のとある海辺に、残暑のさかりを過ごすのである。
眩しい海風がわたる灼熱の浜。豊饒な香り立つ波打ち際はそこにある。浜に遊ぶ人々の中にも、少年はいわれぬ孤独を感じる。少年は日傘を出て浜を離れた。ならぬとの大人の言い付けを突然の気まぐれに破って、少年の夢想と、唐突の冒険心が、宿命的な出会いに向けいざなわれて、岬へと足を向かわせたのである。
絶景へと存分に描写される壮大な岬。轟く潮騒。紺碧の海。そこで少年は、名状し難い悲劇的な美をもつ女性に出会ってしまう。美しい女性は、相似の顔つきを湛えた男性と幸福に包まれて連れ立っていた。男女の美しさは、この世の喧騒から隔絶された何かであり、男女とこの世をつなぐものは、夢想によって尊きものを確かにに知る少年と、わずかに遊ぶひとときだけであった。
少年はそのひとときに永遠を見た。心豊かであった。しかし少年が遊びに目を離した刹那、男女は、「悲鳴に似た微かな短い叫び」、「荘厳な美しい声」、「高貴な鳥の呼び声」、いや「神の笑いにも似たもの」を少年の心に響かせて、静かに断崖に消えたのであった、、、
この作は、二十歳程の三島由紀夫が、若さ故の獰猛な無制限の才能を放射して、全編に、ほとばしる天稟を投げつけた快作である。後に三島由紀夫自身がいうところの、「言葉の純潔性を保持するためには、言葉によって現実に出会うことをできるだけ避け、、」というところが存分に発揮されている。現実を避けながらこれだけの密度で紡ぐ筆力。
果たして美しき男女は兄弟か、いや愛するものであろう。これらを死に、天に導いたものは、神の恩寵か、禁断された欲望か、はたまた純然たる愛欲、哲理の徹底、条理の貫徹、あるいは絶望という名の希望であろうか。
このたとしえもない大きな事に面し、十一歳の少年は、また二十歳を跨ぐ著者は、「人間が容易に人に伝え得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めてさすらい、おそらくそれとひきかえでなら、命さえ惜しまぬであろう一つの真実を、私は覚えてきたからである。」と本書を締めくくって、ひとつの早すぎる確信に到達する。
命さえ惜しまぬ大切な真実とはいったい何か。
その先にあるものはこの物語を読むものそれぞれに確信すべく問わねばならない著者との黙契であろう。
○エピローグに代えて
中原中也「山羊の歌、無題」『中原中也詩集』(岩波文庫)
以下、中原中也叙す。
Ⅰ
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人間に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはついひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我侭だった!
目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私は何のことだか分からなく悲しく、今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!
Ⅱ
彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。
彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
嘗て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遭わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!
Ⅲ
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
かたくなにしてあるときは、心に眼
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分かち得ん。
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。
Ⅳ
私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持ちの中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人でもあるやうに感じて。
私はおまへを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。
またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!
Ⅴ 幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。
頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。
幸福は休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。
頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈して、怒りやすく、
人に嫌われて、自らも悲しい。
されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎えられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!




