もう先の時分の、先月のことになるが、久方ぶりに橿原市八木町の八木ラブリーというショッピングセンターに行った。
私は十代の該当する頃県立桜井高等学校に通っていた。実家は明日香にあったので、明日香から近鉄電車で八木を迂回して、真北にある桜井市所在の高等学校に通っていた。
当時は八木ラブリーはニチイといった。そのニチイによく立ち寄って、ものを食べたりぐだぐだ言ったりしていた。その後ニチイはマイカルとなって、それを経てイオンとなったが、現在の八木ラブリーを為しているのは別の経営体である。ニチイから今のところへ何かしらの譲渡がなされたのだろうか。よく知らない。当時はそのようなことをするためにそこへ行ったが、今回は行政の相談会を担当するためにそこに行った。
朝方から雨が降っていた。近くに用意された駐車場に車を置いてその店に入った。傘の水気をすっかり切って、入り口に用意された装置で傘にビニールを纏わせて店にはいったが、足元のしめっぽさは断ち切れないで外から中に引き摺られた。売り場の空気を吸うと、集っている客の表情や売り場の意匠や世相の変化から出る何かが、ごまかせない強いにおいとなって漂流していた。ある統一感がそこには欠けているように感じられた。ただ漂流していた。
八木は徐々に変わっている。ここ八木西口もしかりである。小さな店にある人々の顔が変わり、心が変わり、何かが少しずつ傾斜する。そうして店が変わり、別のひとつも変わり、いつの間にか結果としての全体も、全体としての結果も変えてしまう。自分だってきっと変わっている。眺めようとするこちらが変わったのか、否対象が変わったのか。
かつて文学・科学論争や、文学・政治論争が華やかであった頃、このようなことが言われた。
「果たして、かの太陽が綺麗であるのか。それとも太陽を綺麗と思うのは人間の心であり、気の迷いであるのか。」
太陽信仰は古来より数多の人間社会にあるものだが、おそらくその根拠は、「太陽が綺麗である」ことにあるだろう。太陽が美しくか輝いていることに基づいている。この場合の太陽の美しさは、太陽そのものの美しさである。
しかし近代科学はそうは言わない。科学はかようにいう。かの太陽の位置にあるものは、何某で構成され、何某の運動を行う物資である。物質がそこにあるだけである。それが美しいと思うのは、こちら側の脳髄の働きであり、見るものの評価の問題である。太陽は太陽ですらなく、太陽かどうか、綺麗であるかどうか、その存在する意味、それとの付き合い方は、すべからく哲学や文学の問題である、と。
科学は「知識」を教え、生活を便利にする。しかし「意味」は教えない。科学は大切だが、私は哲学や文学を大切にしたい。精神の独立性を信じたい。人間を信じたいし、世界を信じたいと思う。ただそこにあるだけであるとは考えたくはないのだ。だから、実際に太陽はきっと美しいのである。
八木西口の町は雨の中にあった。
雨は青く冷たかった。
町や人々は暗かった。
少なくとも、揚々と上を向いてはいなかった。
だから実際に、この町は少し暗いのだろう。気のせいなんかではない。
目的を果たして家に帰ると、株価がずいぶん寂しいという報道がなされていた。なるほどと思った。今までの頑張りの延長線上には、どうも明るみは無いようである。
暗いものは暗いのだという確かな現状認識と少し違った行き方の先に何者かを見出していく時代が雨とともに静かに訪れようとしている。





