ホーム 所長BLOG 2008年11月

2008年11月18日 13:00

八木の西口。

もう先の時分の、先月のことになるが、久方ぶりに橿原市八木町の八木ラブリーというショッピングセンターに行った。

私は十代の該当する頃県立桜井高等学校に通っていた。実家は明日香にあったので、明日香から近鉄電車で八木を迂回して、真北にある桜井市所在の高等学校に通っていた。

当時は八木ラブリーはニチイといった。そのニチイによく立ち寄って、ものを食べたりぐだぐだ言ったりしていた。その後ニチイはマイカルとなって、それを経てイオンとなったが、現在の八木ラブリーを為しているのは別の経営体である。ニチイから今のところへ何かしらの譲渡がなされたのだろうか。よく知らない。当時はそのようなことをするためにそこへ行ったが、今回は行政の相談会を担当するためにそこに行った。

朝方から雨が降っていた。近くに用意された駐車場に車を置いてその店に入った。傘の水気をすっかり切って、入り口に用意された装置で傘にビニールを纏わせて店にはいったが、足元のしめっぽさは断ち切れないで外から中に引き摺られた。売り場の空気を吸うと、集っている客の表情や売り場の意匠や世相の変化から出る何かが、ごまかせない強いにおいとなって漂流していた。ある統一感がそこには欠けているように感じられた。ただ漂流していた。

八木は徐々に変わっている。ここ八木西口もしかりである。小さな店にある人々の顔が変わり、心が変わり、何かが少しずつ傾斜する。そうして店が変わり、別のひとつも変わり、いつの間にか結果としての全体も、全体としての結果も変えてしまう。自分だってきっと変わっている。眺めようとするこちらが変わったのか、否対象が変わったのか。

かつて文学・科学論争や、文学・政治論争が華やかであった頃、このようなことが言われた。

「果たして、かの太陽が綺麗であるのか。それとも太陽を綺麗と思うのは人間の心であり、気の迷いであるのか。」

太陽信仰は古来より数多の人間社会にあるものだが、おそらくその根拠は、「太陽が綺麗である」ことにあるだろう。太陽が美しくか輝いていることに基づいている。この場合の太陽の美しさは、太陽そのものの美しさである。

しかし近代科学はそうは言わない。科学はかようにいう。かの太陽の位置にあるものは、何某で構成され、何某の運動を行う物資である。物質がそこにあるだけである。それが美しいと思うのは、こちら側の脳髄の働きであり、見るものの評価の問題である。太陽は太陽ですらなく、太陽かどうか、綺麗であるかどうか、その存在する意味、それとの付き合い方は、すべからく哲学や文学の問題である、と。

科学は「知識」を教え、生活を便利にする。しかし「意味」は教えない。科学は大切だが、私は哲学や文学を大切にしたい。精神の独立性を信じたい。人間を信じたいし、世界を信じたいと思う。ただそこにあるだけであるとは考えたくはないのだ。だから、実際に太陽はきっと美しいのである。


八木西口の町は雨の中にあった。
雨は青く冷たかった。
町や人々は暗かった。
少なくとも、揚々と上を向いてはいなかった。

だから実際に、この町は少し暗いのだろう。気のせいなんかではない。

目的を果たして家に帰ると、株価がずいぶん寂しいという報道がなされていた。なるほどと思った。今までの頑張りの延長線上には、どうも明るみは無いようである。

暗いものは暗いのだという確かな現状認識と少し違った行き方の先に何者かを見出していく時代が雨とともに静かに訪れようとしている。

2008年11月17日 20:51

読書週間と読書の秋。

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読書週間(もう終わった)、読書の秋ということで、近頃はまた根を詰めて本を読んでいる。

なんでも読書週間というのは出版に係る各団体が起こした営業のための作為ということらしいが、読書の秋はそうでもなく、自然から出でたものだろう。ならばある程度理に適っているような気もするし、心なしか読書もはかどるような気もしている。

読書の秋はどこから来るのか。その過ごしやすさからか。気温か、湿度か、陽射しのやさしさか。それとも、世間の忙しさが、冬を前に小康するからだろうか。冬の盲目的な忙しさに備えて、知恵や豊かさを蓄えておくべしという規範か。よくわからないが、とにかく少しははかどるように思える。

ここ数ヶ月は小林秀雄先生の全集を相変わらず通読し、正宗白鳥全集、河上徹太郎全集、(ポール)ヴァレリー全集については目録を作って時の許す限り拾い読みをしている。それにしても疲れる。頭が痛い。ただ、止めることができない。坂口安吾の批評集も読んだ。その他明治以降諸々の小説も読んでいる。

上のような批評家のテキストには面白いもそうでないもなく、都度、珠玉の宝石箱を覗くような心持がするのだが、小説については面白いものもそうでないものもある。しかし面白くないからといって意味がないとは言えない。

それにしても、作家の個性の、一体これほどの明らかなことは最近になって特によく自分に現れてくるように感じられる。また、いわゆる名作というものは、実は名作という響きがもつ健全な魅力のみで訴求するのではなく、いろいろに角度をもって眺めてみれば、その裡にひそかに毒気をもっていることも少なくないようである。そして、健やかさも、毒も、悲劇も、道化も、やはりゆっくりと面白いという余韻を湛えて輝いている。名作たる所以である。

正直言ってあまり時間がないので、文学や絵画といった危うい芸術については、時の検証に耐えたもののみを選び取りたい。それだけでも大変な蓄積である。取り崩すのは苦行である。得体の知れないものを品定めしている余裕はない。

時間がないが、この苦行は、やはり止めることはできない。秋が終わって寒い冬に、またそれは同じであるだろう。

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