ホーム 所長BLOG 2008年9月

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最近我々の中央団体である日本司法書士会連合会のほうで、司法書士の名称変更論が言われている。その必要性、理由については、①「書士」という語意が実体を表さなくなくなっているから、すなわち書士とは書くものという意味であり、登記手続きにしろ、訴訟手続にしろ、その他の業務にしろ、実体関与が欠くべからざる要件になっていることころの日常業務において、専ら書く事が仕事であるかのような名称はそぐわないから。②他の資格者と紛らわしいから。というような、他にも種々挙げられてはいたが、主としてはそういうことだったと思う。

もっとも、司法書士という名称は我々が自称しているのではなくて、法によって呼ばれている名前であるから、我々だけでどうのこうのできる問題ではない(行政官僚の、いや国民の理解が必要である)。

ところで、名前が大切であるということに異議を挟むものはないだろう。名(形式)よりも体(実質)のほうが大切であり、むしろ体でもって否が応でも名を規定するような、そういう活動こそが必要であり、名前にばかりこだわるのは邪の道であるという考えもある。しかし名は体を表すという言葉があるではないか。皆自分の子供の名づけにおいて、あれこれと思案をするではないか。また自分の名前に誇りをもったり、嫌悪したりしながら、やはりそれは人間精神に大きな影響を及ぼすではないか。特別な理由もないのに日本数千年の思想たる諺(言業)を置いて物事を判断することは真っ当な大人にあってはならない態度である。ましてや国家資格者の中央団体という巨大で重たい政治組織においては、当たり前の骨太な知恵に従わないという決断はないのである。

とここまで書いて、勘違いしないでいただきたいのだが、私は最近「司法書士」という名前に愛着をもち始めている。よって変更は必要ないのかもしれないと考えている。といっても前記のとおり名前には大変にこだわりがあるから、その理由は消極ではなく、積極的にこのままがいいのではないか、という考えである。

「司法書士」、なかなかいい名前ではないか。「書をもって法を司る」のこと、これ以上の名前には、容易に思いが至らないと言えないでもない。そもそも日本は書の国でしょう。記録の文化は延々と息づいている。また学問も思索も書をもって為される。言葉と書をもって為されることのない思考などというものはないのだ。もっとわが身に近づけて言えば、訴訟事件もその他の法律手続も、司法権の大方は書をもって律しているのではないか。実体関与がいかに増えたとして、増加分はまた書をもって為される仕事に総合されるではないか。さすれば、書に命をもって、書に働くということは、そもそもこの世界の本道を行くものではないか。果たしてこの変更、立法事実がないとも言えるのである。

さて、書くことは楽しいものである。そして書くことは苦しいものである。約束どおり書くことは易しいものである。そして自由に書くことは、大変に難しいことである。約束どおり書くことが易しいとして、しかし楽しいとばかりはいえないだろう。しかし苦しいばかりとも言えないだろう。自由に書くことが難しいとして、興味の高低またしかりである。形式と実質は交差する。

約束どおりに書いたり、自由に書いたり。人間は色々に書くことができる。ただ、仕事において書くことには、やはり仕事上の要請が付き纏う。

民事訴訟には要件事実論という技法があって、裁判所において迅速確実に権利の存否や変動を判断しうる要請に応えている。みんな好き勝手に主張したのでは読むに耐えないし、また司法権は具体的事実に法を適用する作用であるから、適用される法規の要件となる事実を揃えて主張することが必要であるし、またそれで足りるのであり、結果要件事実の主張のみが証拠によって認められれば、それだけで自動的に答えが出るのであるから、自由な主張は役に立たないばかりか、奔放な主張は邪魔ですらある。(ただ法規は抽象概念であり事実は個別具体的であるから、日本のような閉じた法理論体系をもつ国においては、無理にでも体系の中で処理する要請が生じ、故に法の要件適用がいかようにも流動的になって、建前と現実が乖離するという学問上の大問題はある)。

また、登記手続の背後には膨大な登記先例というものがあって、重要財産たる不動産の、複雑多様な権利変動を、全国一律一様に、かつ即時に判断しうる要請に応えているのである。重要財産の、自由で、迅速で、確実な取引は資本主義発展の肝であるから、複雑な権利変動について一々異なった様式と方法で申請していたのでは危なっかしくて取引などできないからだ。

仕事上の要請。何とも息苦しい言葉である。一般においては、堅苦しいなどと言い換えられたる様子である。
仕事上の要請。しかし我々においては、厳守すべき規範であり、義務であり、技能上の優劣もまた、ここにおいて一義的に測られるのである。

では我々が仕事上取り扱う書には自由はないか。個性はないか。

確かに上記のような仕事の本体において、我々の書に自由はない。個性はない。よって当然に愉快も興奮もない(と言い切ってしまっていい)。あってはならないようなものであるからだ。あらゆる意味でいかに大層な訴訟事件であったとしても、当事者の権利から離れて、我々が自由に書において羽ばたくということはない。論理的にそれはないから、あったとすれば偽装か法の逸脱か、さもなくば錯誤である。

本体において、本体の中心課題においてそれがないとするならば、我々の書は、どこに自由を求めようか。個性や、喜びを求めようとするのか。

それは本体の周辺。裁判所や法務局の中においては、ことの中心課題の周辺において楽しみは見出そう。裁判所や法務局を去ったならば、あらゆるものとの間にやりとりされる文書、電子メール、書き置き、言付け、企画や連絡、案内、依頼あらゆる通信文書や物事を現そうとする文書の、形式や内容や香りにおいて、個性を滲ませようではないか。

官僚的、官庁的な文書形式も学ぶべし。
一般的な文書成型の技術も習うべし。
文法や修辞法も身につけるべし。

しかしそれだけではつまらない。その先へ歩きたい。

氷のような冷気を伝える文書はいかに書かれよう。
一言で相手を飲み込むような、言霊を運ぶ畏いものが書けるか。
豊潤な温かみや人格で覆う、抱擁の文書はどうか。
品格をともなって色気をほの香る、ふくよかな女性のごとき言葉が表せるか。

「司法書士」

我々は、法によって書士の名を許されたものである。国民によって書を扱う職人として、使わされたものである。我々は本当に、書のプロであるだろうか。仕事上の要請の、個性の発現の、それぞれの局面において孤高を目指しているだろうか。はなはだ足元が涼しいのである。

我々は人一倍書に鋭敏であっていい。少なくともそのように命ぜられて遥か長い年月を経た。我々はその足元を深く見つめて、その積極的意味の中に、この名称変更問題の解法を得なければならないだろう。

2008年9月26日 00:00

鹿と面談する。

不思議なことがあった。

25日の午後、期日で裁判所に出頭したが少し早めについてしまったので駐車場で時間をつぶすことにした。数十分ほど時間ができたので、丁度読みかけの本に手をつけた。

車は裁判所の裏手の駐車場に停車した。そこには十数台の車と、眼前の大きな庁舎の建物と、万全の日差しのみがあった。読みかけの本は、ある意味の個室という静かな環境も手伝って、相当の速度で正順に読み進んだ。

丁度そのとき、駐車場から一段上った小高い芝生に「鹿」がはみ出してきた。その駐車場は道路に面している。そこからこの地の日常である鹿が、あらゆる私有地、公有地に分け入ってくるのは、それもまたこの地の日常風景である。何ということはない、本から鹿に、鹿から本に、再び視線を巡回して、そのまま先に進めると思ったそのときだった。ふと鹿をもう一度眺めた。暖かい日差しにその背がきらめきわたっていて、何かが反射したようで、そういった注意からもう一度眺めたに過ぎない。

鹿は四つ足を均等に踏みしめて、しばらく同じ場所に固定していた。相手方の視線はこちらにあった。いくらかの時がそのままに経過して、だんだんと不思議な感覚が湧き上がってきた。視線を交わした鹿との間に、何かが通じたような心持がしないではなかった。

鹿が車に見えてきた。本当の車はすぐとなりにたくさん、平行に並んでいる。四つ足で地面に固着する姿は何ら違いがないように映ってくる。鹿はどんどん大きくなった。茶褐色の塗装、なまめかしい流線型、鈍く光る眼。鹿に匹敵して映えてくるのは、少し離れたメルセデスと、ベーエムヴェーと、アルファロメオのみであった。日本車はからっきし駄目であった。容姿が空しかった。

そうこうしていると、今度は鹿も、車も、裁判所の図体も、電柱も木々も、風景全部が同じものに見えてきた。一体何の違いがあるというのだ。そういう確信が内側から来た。動物か静物か、有機か無機か、そんな分類は何の意味もなかった。鹿の眼を中心に据えた構図の中で、全てが静止していた。鹿の漆黒の眼は、宇宙のように、いや世界のように、全ての中心をなしているように思われた。またその黒は、ほんの一点から何処か圧倒的な広さに向かって静かに拡散するようでもあった。

ふと車のクラクションという日常が、以上のような不思議な次元に強制的に介入した。私は自我を回復した。

果たして、予定どおり裁判所の期日を経過することができたのである。

2008年9月25日 08:41

友人、旅行、石川。

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1 友達
甘い言葉。軽い言葉。いかにも浅薄な響き。

2 本当の友情
そんなものがあるのか。本当の人生すら確定し得ないのに。

3 何でも言える間柄
だから何だというのだ。何でも言えるからといって、言って良いとばかりは限らない。また何についても同意があるとは限らない。むしろ言葉の取捨選択にこそ人間の実践的教養があるだろう。

4 価値観が一緒だね
全く同じ人間などいない。とりわけ人生の重要な部分においていつも人間は深刻に相違する。もし人間精神が同じなら対峙する妙味も感ずまい。同一の二個を、自然はきっと許すまい。だから、甘ったるい同情などいらない。むしろ同調圧力にはのっぴきならない差異を主張して、あえて抗したいとすら思う。

5 旅
旅には無条件の価値があるか。他国を巡回すればそれだけで真実に達しうるか。その契機は掴みうるか。そんな楽天的な妄信(あるいは偽装)は、現代において、自分において、もはや失笑すら買えない。

6 多文化の摂取
日本に文化の多様性はあるか。現象はどうか。精神はどうか。日本の、この驚くべき同質性。わが国は驚嘆すべきほどに、同一文化の光彩に射されている。それは、旅に自己成長を、また異文化の摂取を求めるなどという安易な感受性には、日本は大いなる一つの国を為して渇望者にあきらめと絶望を惹起するようなものである。旅先の生活を自分のものとして受け入れこれと同化する素直な感受性こそが、旅先における人間生活の、思想の、見まがうことの無い個性の、静かな通奏低音を見出すだろう。

7 息抜き
仕事をするに疲れ、休暇において安らぎを求めるとはなんと在り難き楽観だろうか。否、仕事を離れた純白の感受性を世にさらせば、そこに現出する無限の世界への間断ない興味が押し寄せて、とても安らぐ次第ではないのである。興味や関心や自己解放は、捉えきれない世界を捉えること、それを自己のこととして受け止めるものの苦汁を精神に滲ませている。


先の休みに、同職数名と、各々自動車を別にして、各自の責任における運転にて、石川県に旅をした。

長旅であったが、道中は時折休息をして下らない話をし、また一人になって黙々と運転をし、宿では議論をしたり同調したりした。酒も飲んだ。それにしても下らない話はいいね。だからといって真面目に話すのもいいものだ。畏まった話にも、下らない話にも、どちらに真実がないとは言えないからだ。

さて、これはどんな旅か。
皆個人である。大人である。男である。
よってそれは、各々の旅なのであろう。

経済を異にし、支配権力関係を別にし、別段干渉もしなければ制約もしない。話題があれば問いかけ、気分が向かえば話かけるような関係は、ここに限って言えば、近代が想定した合理的一般人の、個と社会の適切な関係の箱庭のようにも見え微笑ましくもあるのであるが、だからといって暑苦しいような関係継続への契りや意思の逐一の確認を欠いている点において何とも融通無碍であり、一体性も、全体性も、友を終局助ける同調の意思も、また助かるる意思もないようであるから、何だかそれは寂しげな横顔をしていないでもない。いやそんなことはない。助けるのかもしれない。求めるのかもしれない。将来はいつも未確定である。

しかし私は、友人関係に約束を望まない。未確定な関係性の、その確定を希望しない。そこには嘘が付き纏うからだ。

未確定のままでいい。そんな不透明な関係の、それでも基底には必ず帯びる透明な「色彩」が心地いいのか、そうでないのかこそが重要である。その色調が心地いいのならば、未確定な関係性のホックは、その未確定の性質を相変わらず保ったまま将来へと自分を繋ぎとめていくのだろう。

少なくとも心地よく透明で、そして感受性の懐に幾分かの思いを落とし込んだこの度の旅行は、私個人に善い旅であったと思う。

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小林秀雄「小林秀雄公演【第一巻~第七巻】」(新潮社)

新潮社から出ている、小林秀雄先生の講演録を購入して聞く。全部で七巻分(一巻CD二枚組)あってちょっと値が張ったので躊躇したが、やはり購入して聴いた。お盆前に購入したので、お盆はこれを聴いて、本を読んで過ごした。構成から言って全部を聴くとおよそ14時間程度に及ぶ。しかしお盆の期間だけで三回聴いた。それからも車の中や、携帯プレイヤーでフィットネスでも聴く。これからも聴き続けるだろう。

「不明を恥じる」とはまさに的確な言葉である。
以上の作品を評して、茂木健一郎氏が記したものである。
「生きることがわかっていなかったんじゃないか」とも言っている。こちらのほうも、的確至極な言葉である。

小林秀雄先生は、西田幾多郎先生と並んで日本近代最高知性の一人と言われる。西田幾多郎先生については、私が勉強をしない学生時代を過ごした事から、「哲学概論」と「随筆集」しか読んだことがなく、「善の研究」すらもまだ読んだことがないからよくわからない。とにかくそんな定義や評価はなんだっていい。

私はすごいものを手にしてしまったような気がする。なんと一体貴重なものを手にしてしまったように思う。

「信じることと知ること、歴史と人生、日本の神、審美眼、無私を得る道、近代科学の方法、科学の限界、徒党を組まないこと、考えるということ、感受性、本居宣長、プラトン、ベルグソンの哲学、学問の常識、合理的思想の限界、精神と肉体、因果律、魂の存在、宗教観、学問の楽しさ、源氏物語、もののあわれ、実用の理の空しさ、告白文学、個性、正宗白鳥、天賦の才、、、、」先生の言及は多岐に渡っているが、なんと美しい、真っ当な、一本の光彩が通っていることだろうか。複雑な現象に言及しながら、なんとその態度は当たり前に疑いの無い軌道を描いていることだろうか。論理の極まった精緻さでなく、自然現象の彩でもなく、人間の語る平易な言葉においてこれほどの説得力を心に感得することはそうある経験ではない。

私はその言葉に不明を恥じて、感服するのほか、採るべき態度は見当たらないのである。

思考に思考を積水した晩年の小林先生が、「不思議だなぁ、、」という。
私は確かに不思議だと思う。
「最近のインテリゲンチャは実に浅薄だねぇ。何でも知っているような顔をする。そんなことあるわけないんだよねぇ、、実に浅薄ですよ、、浅薄な態度ですよ」と批判する。
私はまさにそうであると小躍りする。
「科学なんてねぇ、そんなもんなんだよね、、諸君は迷信の中にいるんだよね、、」「そいいうことを諸君ははっきりと知っておかなきゃ駄目なんだよね、、、」とつぶやく。
私は科学の限界を疼痛する。
「そんなの言葉じゃないか!観念じゃないか!私の経験てのは私が直接にすることです。直覚することです。真実はこれしかないんだよねぇ、、」と語気を強める。
「集団的に考えるなんていうことは無いんだよねぇ。集団的に恋愛するってことが無いのと同じじゃぁないか。そうじゃあないか。みんな自分流に考えないから、イデオロギーなんていうものがあるんだよねぇ。つまらんことですよ。自分流に考えないから「会」なんてものがほしくなるんだろう。私はペンクラブなんていうものには入りません」と政治への決定的な態度を現す。
私にもう言葉は無い。

小林秀雄先生は、人間の魂はあるという。そんなことは当たり前のことでことさらに取り上げることでもないという。解りきったことだという。私もそう思う。

先生の言葉はCDという技術を用いて時代を超えて私にも届いた。私はこんな奈良の地で、その言葉に深く感得した。先生は現前した。その霊は確かにここに在った。私が望めばいつでもそこに在る。魂は存在する所以である。

ところで、私はしばらく「小林秀雄全集」を精読しているが、小林秀雄、正宗白鳥、河上徹太郎、柳田國男、森鴎外、志賀直哉・・・論理を超えた直覚を掴んだものは、皆しんしんと恐ろしい文章を書く。それはしんしんと恐ろしい。

論理を忌避して感覚のみを頼る怠惰な馬鹿にはない、直覚を軽侮して技術を妄信する盲目の阿呆にはない、論理を煮詰めきったもの、自分を見つめ尽くしたものだけがその先に見る明察。諦観。信ずる心。

大才は、レトリックを多様したりはしない。観念をもてあそんだりしない。常に具体的である。究極的に具体的であろうとする。どこまでも事実を見て、自分の眼のみで、自分の心眼だけで事実を睨みきって、事実の中だけにある真実を一滴一滴と汲み出すのだ。そして具体的であるが科学に根拠しない。科学の限界を知り尽くすのだ。眼の前にあるものから自分が直接に経験した直覚、それのみを真実として記すのだ。

大才はまた淡々と記述する。だけれども決して易しくはない。どこからか難しさが込み上げる。空恐ろしいのである。本当の恐ろしさは一文を読めば知るようなものだ。いや、わからなければその次の一文で、そして次の一文で必ず伝わるようなそのような恐ろしさだ。直接的で端的ありながら、ひとめくりの、ひとつのパラグラフの、ひと語りの文章に止まらせ、読むものを呪縛するような仕方の恐ろしさであるのだ。

小説も批評も、その物語性や論理性も去ることながら、私は筆致となって現された言葉から、書き手が何を思って書いているのか、いかなる想いで書いているのか、どのようにすればかような表現ができるのか、その至る思考過程はどのようなものか、またこれによって何を実現しようとしているのか、向けられたところは何か、そのようなことばかり考える。果たして恐ろしく感じられるのが、前述のような数少ない文士である。

文筆にしてこういったところである。おそらくこのようなものの前に立てば、私は一言も話せなくなるだろう。軽口など到底叩けなくなるだろう。

私はこんなふうに恐れる。そのような文士を恐れる。
私はこれらに憧れる。無条件に憧れる。

文芸は死んだ?思想は死んだ?哲学は死んだ?
そんなことは無いよ。それは誰が決めるのだ。個人が処するのだ。

人間を、もうどのようにも感服させる精神的なものは常に、恐ろしい呪縛力と、魅惑的な誘引力という、刀の両面の輝きでもって、凡人に鋭利に切りつけるのだ。切られたことに気づくためにも相応の感受性を要求するほどに、鋭利に。

さて、話が変わって申し訳ない。
唐突のように思われるが、私は無宗教である。

キリスト教がごとく一神教にはなじめない。というより無条件で感覚が理解を拒絶するのだ。どうしても自分のこととして解らないのだから仕方がない。

仏教は儀礼的に信仰している。儒教は自分の淵源となっているのかもしれない。しかし上記に同じく、あるものが法を説くというスタイルは、あるものが世界を提示するというスタイルは、教えにおいて上記と対極にあってスタイルに共通であるから、やはり私には終局解らないと言わざるを得ない。

日本における古神道は完全に理解をする。神ながらの道。八百万の神。あらゆるものに神が宿る。万物が自己を包摂し、また自己は万物に及ぶ。世界を規定するなどおこがましい、世界を説くなど恐れおおい。だからこそ、そうであるからこそ自分の感覚にしたがって、自分の感覚を信用して、感じるままに善いことを行うほかない、といういうのが私の現在の考え方である。これが宗教というのであれば、そういった宗教観である。

ところで人間は、私が感ずるがごとく抽象的な思想のみに満足することができず、やはりもう一つ具体的なものを求めるように創られているように思う。抽象と具体という形式のバランスが、人間に本能的に天賦されているように考える。

抽象と具体の思想における両形式の必要性。人間は対極を内在して、初めて完成された一個として精神の安全を獲得するのではないか。

具体。かつてそれは労働であったのだろう。具体的なものは、日々の生きるための労働や家族関係や、狩猟採集や、農耕で埋め尽くされていたのだろう。もって人間の具体は完全な満足を得ていたのだろう。日本古来の自然崇拝という思想、すなわち抽象に、日々の労働という具体が結合され、形式は満足を得ていたのだろう。

少し前、具体は科学により代わって満足された。科学は具体を驚くべき速度で満足させた。しかしいつの日か、科学の先端は行き場を失って、いつしか科学は抽象の領域に突入した。現実生活に直結しない、現実生活への影響を想像できない領域での科学は、もはや具体の実相を備えず、それはまさに抽象の職分に進行した。科学は具体を喪失して、形式は具体を喪失した。人間は不安定になった。

人間は再び具体を獲得しなければならない。

かつて労働の実直がそうであったように、かつて科学的精神がそうであったように、具体は、その実体からもたらされる精神的作用である。具体を満足させる精神的作用に他ならない。信ずべき具体。

私は小林秀雄先生に出合って具体的思考を獲得したように考える。私において迷いをもたらしていた具体の喪失感は、しばし、これが湧出した青雲の背後に霧散した。もちろん迷いが全て無くなるはずもない。迷い方を知ったのである。

人生にあって、実際的生活に寄与するある確信的思想のことを、私は宗教と呼ぶ。

その意味で、「小林秀雄全集」をして、またこの「講演録」をして、私はそれを自らの宗教を獲得したと呼称せしめるほかないのではないか、そうとすら感ずるのである。

皆様にも勧めない理由はない。

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2008年9月 1日 06:47

天職。

数日前に晩方ふとテレビをつけると、NHKで平成仕事図鑑??一期一会??とかなんとかいう番組が放送されていた。普段ほとんどテレビは見なくなった。ここ一年でどれだけテレビを見ただろう。テレビの前にきちんと座して見た、という意味でいえば、オリンピックと、あとHNKスペシャルと、同アーカイブスと、同クローズアップ現代と、その他同局放送を少し見た程度か。

一番利用しているメディアはインターネットか。これも最近は極力利用時間を減らしているが。テレビについては、民放の放送がくだらないというのが何よりの重大事実なのだが、くだらなさという意味ではインターネットの中の大半の情報も引けを取らないわけでどっちもどっちと言う他はない。では、本当に価値のある心震わすものが期待できず、くだらなさに満ち満ちている両メディアから摂取を期待できるのは、くだらなさを追及したエンターテイメントか、又は単なる物事の情報の知・不知に係わるニュース的なものか、ということにならざるを得ないが、情報、知識の知・不知に係わるニュースを採ろうとして受身にテレビから流れてくるものを待ちぼうけるという間抜けを働く理由も時間もないわけで、よって必然インターネットの利用が増えるという時間配分の按配となる。

話が逸れたが、その一期一会だったか、平成なんとかだったかという番組は、およそ若者を対象としたもので、職業に着く前、又はその先後あたりにおいて、まさにその職業生活に悩む若者を複数登場させて、またその若者が互いに異な方向性をもっているということを対照させて、そこから何らかの人生を歩む道しるべを得ようというような趣旨で創られているものと思われる。

大体のパターンは、所謂「やりたいこと」が見つからない若者が登場して、「やりたいこと」をやっているという若者も登場して、やっているほうがやっていないほうに対して教訓を説く。会場には社会的地位を確立しているように見える「大人」がまた一人いて、これは大人だけあって、「やりたいこと」なるものを簡単に語ることこそないが、やはり「やりたいこと」に至る道ほどを何らかの方法で導こうとする。

テレビ番組としては非常によく出来ていると思うのだが、やはり「やりたいこと」なぞというものはそんなに簡単ではないよ。これはそんなに容易いことではない。「やりたいこと」というのを「これで間違いない」という確信にまで言い換えれば、一生見つからないようなものである。「自分なりに」という限定を付してみても、この難しさはなんら減殺されることはない。有史、哲学者や文士やものを考える人間が数千年考えても尽きせぬ悩みであるから、この難しさ加減は実証されていると考えていいものだろうと思う。どこまで行っても解きほぐせぬものなのだから、生きるためにやむなく目の前の事をしてその中で悩んでもいいし、生きるに少し余裕があるのであればふと思いついたことに取り組んで勘違いだったと悩んでもいいし、これだと確信合点して熱中し少しずつ悩みを発露していったっていい。どの道生きるのは難しいことにかわりはないのである。

ここで一つ確信しておかなければいけない事実がある。どこからやってきた迷信かは知れないが、この日本において近年敷衍蔓延している迷信がある。それは、「人間は毎日望んだとおりのご飯を食べることができる」「人間はたとえお金をもらう立場であろうとも職場で何らの苦痛を受けることなく稼動できるものである」「世の中の人間は自分に何らの苦痛を与えてはならない」「毎日何らの不満、不快なく気持ちよく過ごしていけるのが普通である」「旦那は仕事をして当たり前である。人並み以上の所得を得て当たり前である。家事労働は金銭評価するといくらである」「女房は家事をして当たり前である。尽くして当たり前である」等等。

とにかく、自分という人間が、職業生活、家庭生活、精神生活、肉体の生活において、あらゆる満足をえている状態が、「普通」であり「スタンダード」であり、それを少しでもはずれた状態は「異常」であり「是正されるべきもの」であり「権利侵害」であるというような迷信。自由主義思想ですら踏み込めない完全な自由への迷信。日本は豊かになったのだ、これが先進国家たる立証である、というようなことでこの迷信を側面支援する向きもあるが、いくら支援したところで迷信は迷信であり、決して真実には到達しない。

自分が過ごしている環境がいかに奇跡的な産物であり、稀有な一瞬の調和の中にあるとう真実への確信を抜きにしては、先の、人生のこれほどの難問に向けた足取りを、一歩として前に進めることができなくなってしまうだろう。あふれるほど聡明な哲学者や文士や芸術家ですら到達しえない難問に、さりとて同じ人間として挑みかかろうとする勇士にならんとするのであれば、少なくとも先の偉人ですら痛いほどに噛み締めて身に刻んだであろう問題解決への基礎的条件、すなわち「自分の立つ場所」に係る「真実」への確信を、まずもって深く納得してから出発する必要があるだろう。

迷信を解くという作業に本気で着手しないというその意味で、先の番組は、視聴率を獲得できたとしても若者に一歩踏み出さしめる効果において浅薄だろうと思う。

内村鑑三氏はかつて以下のように言っていた。

天職を検索しようとするものが天理、哲理、すなわち社会の真実たるもの認識せずして何をかという点、及び、目の前の義務を実行すること、そしての義務の履行が大きな喜びをもたらすということについての言及は誠に正しいものと思われる。

そんなこといったって、若者の悩みも、大人の悩みもそう簡単には癒えはしないが。


「人におのおのその天職のあるのはよくわかっております。しかしこれを発見するのは非常にむずかしくあります。「いかにしてわが天職を知るを得んか」、これ実際の大問題であります。

天職とは、読んで字のとおり、天職であります。すなわち天あるいは神がわれら各自に授けたもうた職であります。ゆえに、これは、天または神を知らずして知ることのできるものではないことは明らかであります。多くの人は、天をも神をも知らんとは欲せずして、しきりに自己の天職を知らんと欲します。しかし、かかる者は天職の示されないのはよくわかっております。天に仕え、自己の職分を全うし、恭謙もって命を終えんと欲する者にのみ、天職は示さるるものであります。世の無神論者、随意家、自己のためにこの生を楽しまんと欲する者……かかる者がイクラ尋ねても天職の見つからないのは、何よりも明白であります。

天職はまた考えて見つかるものではありません。われは何のためにこの世につかわされたる者なるか、これは、イクラ書を読んでも、いかなる大先生について問うても、いかに沈思黙考を凝らしても、見つかるものではありません。多くの人は自己の天職を発見せんとて非常に苦悶します。そうしてこれに見当たらないとて非常に心配します。しかしながらこれは無益の苦悶であります。無益の心配であります。天職はかかる方法をもって発見さるべきものではありません。

天職を発見するの法は、今日目前の義務を忠実に守ることであります。されば、神はだんだんと、われら各自を、神の定めたまいし天職に導きたまいます。要するに天職は、これに従事するまでは発見することのできるものではありません。あらかじめ天職を見つけておいて、しかる後にこれに従事せんと思う人は、終生その天職に入ることのできない人であります。「すべて、なんじの手に堪うることは、力を尽くしてこれをなせ」との聖書の教訓が、これが天職に入るための唯一の道であります。われらは時々刻々とわれらの天職に向かって導かれて行く者であります。ある一時の黙示に接して活然として天職をさとる者ではありません。

天職は、高尚なるほど、これを発見するに困難であります。女官であるとか、政治家であるとかいうような天職は、これを発見するのはいたって容易であります。しかしながら、貧家の良妻たらんかとか、または平民の伝道師たらんかとかいうような、高貴なる、神に似たる天職を探し出すのは、非常に困難であります。これには多くの時と経験とを要します。これは、幾度となく私どもに示されても私どものしりぞくる天職でありまして、私どもがついに感謝してこれを受くるに至りますまでには、多くの失敗にもおちいらなければなりません。しかしながら、神の定めたまいし天職は、とうていこれを私どもよりしりぞくることはできません。神はその選みたまいし者を無理にもその天職に押し込みたまいます。私どもはただひたすらに神に仕えんとの心を持っておれば足ります。されば神は遅かれ早かれ必ず私どもを彼の定めたまいし天職にまで連れ行きたまいまして、そこに私どもに大満足を与え、私どもをしてこの世に生まれ来たりし甲斐のありしことを充分にさとらしめたまいます。」

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