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2008年6月25日 23:02

痛快憲法学。

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小室直樹『痛快!憲法学』(集英社インターナショナル)

痛快憲法学を紹介します。
最近改めて読み返してみて、やはりなかなかよく出来た本だ。

偉人、小室直樹教授らしく、このような体裁の本をこそ上梓して、書中で悠々と語っている姿は、まさに偉人が異人とときに読み替えられたる所以ではなかろうか。

なんともふざけた装丁。しかし中身はちっともふざけていない。言葉はつとめて柔らかいが、内容はストレートに硬質である。

本書は、著者という憲法の語り手と、「シマジくん」という聞き手(これはまさに平和ボケをした日本人を模したかのようなキャラクタ)の対話(といってもほとんど著者が語りつづけるのだが)において、憲法と民主主義の成り立ちを、欧米史の流れを追って思想的・宗教的・社会学的見地から鋭く本質的に決定付けていくという内容となっている。現行憲法の無味乾燥とした解釈学などではない、欧州の熾烈な階級社会と宗教性、そして止むことの無い戦争、そこにこそある血なまぐさい憲法の出自をあぶりだしていくような、簡単な歴史書、思想史の書だと考えれば近い。明治憲法以来の日本への導入過程についても触れられる。

リアリティもこれという認識も無いのに憲法と民主主義という普遍・久遠のお題目を唱えればそれだけで反論を許さないというようなありがちで浅はかな憲法観に鉄槌を下す役割も担う。

「読者の中には「法律の本なのに、どうしてこんなに西洋史の話が多いのだろう」とびっくりされる方も少なくないでしょう。それどころかキリスト教や旧約聖書の講義まで出てくるのですから、ますます仰天するに違いありません。しかし、読み進めていくうちにきっとお分かりになるでしょうが、憲法も民主主義も、けっして「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)などではありません。これら2つは近代欧米社会という特殊な環境があって、はじめて誕生したものですから、憲法を知るには、欧米社会の歴史と、その根本にあるキリスト教の理解が不可欠なのです。」

導入の一文が著者の問題意識を端的に表している。憲法の来歴と本当の意味を知り、価値を知って、真実の民主主義を実現しよう。まさにそのために、本書を俗世にこそ問うのだ。国民よ目を覚ませと。大切なことを伝えるためには装丁になどこだわらない堅固な意思。その意思はどこから来るのか。

それは、近代社会への愛着と憲法への信頼があり、それがあればこそ形のみをことさらに整え実質は一向に伴わない現下のこの国への辛辣な憂いと、その変更への熱烈な願い、教育者としての、そして一国民としての叫びからではないだろうか。

「私の見るところ、日本国憲法はすでに死んでいます。もはや現代日本には民主主義もなければ、それどころか資本主義もない。日本国には憲法はない!」
「今、日本で改憲・護憲のいろんな議論が行われていますが、ともすれば不毛な議論に終わってしまいがちなのは、すべて「憲法は生き物である」ということが忘れられているからです。もし、日本国憲法が死んでいるとすれば、護憲も改憲もあったものではありません。死んだ憲法を今さら守ってどうするのですか。「憲法の墓守」をして、何の意味があるというのでしょう。また死んだ憲法の条文を改正しても、いったい何の価値があるのでしょう。」

著者はこのように憲法の死を宣言してから、「欧米社会の近代成立過程」「日本への近代システムの移植」「日本における近代の死」という本文へ筆を進めていくのである。

西洋においていわば下部構造の発達と、宗教改革によって力を得たプロテスタンティズム(予定説)が、神と民衆を直接の関係に結び、絶対的な神の下における神以外のあらゆる人間の平等を基礎付けて階級社会を破壊し、民主主義を推進した。自由を得た民衆の活動は、宗教的に正当化された利潤を拡大して社会は富み、富みをもって富みを拡大する資本主義は勃興した。

そのような西洋に追いつくという不可避の目標のために、日本においては旧来の尊王思想を高度に純化して一点に焦点を当て、天皇の下における国民階平等を実現した。神国日本としての仕組みを整理して予定説も導入した。もう恐れるものはない。伊藤博文の読みどおり資本主義の精神を短期間に纏い日本の奇跡の近代化は加速した。

さて、日本における近代が死んだのは、著者によれば日本の近代システムの機軸たる天皇教を廃止したこと。すなわち天皇が神ではなくなったことに全ての源泉を汲むという。近代システムの機軸を欠いたところへ、近代憲法をもちこんだGHQの誤解(WASPを欠いたアメリカのようなもの)が、今日の日本における憲法の死とアノミーをもたらしたという。機軸たる超越者を置かない階平等、宗教性を欠いた近代などありうるはずが無いと著者はいう。

納得できる分析である。まったくそのとおりであろうと思う。

しかし、あの近代、あの民主主義、あの資本主義に戻る方法は定かではない。同じ道は歩めないだろうと思う。一度破綻しているし、このように情報が瞬時に体に回る現代においてあのように純粋にはもうなれない。また、あの時代に引き返すことが採るべき道か、それは甚だ疑問である。

結局その先が、すなわち死んだ憲法を蘇生する方法が本書で示されるわけではない。著者も次のように念を押すところである。

「戦後日本のそもそもの失敗もそこにあった。日本人はアメリカが与えた憲法があれば、民主主義が手に入ると思ってしまった。」
「今から150年前の日本人は、浦賀沖にペリーの黒船が来たとき、「このままでは日本は滅びる」という現実を直視しました。」
「今の日本は、まさにそれと同じです。このままでは日本は滅びるしかない。」
「今の日本に憲法もなければデモクラシーもない。それは明治維新と同じではないですか。少なくとも、あのときの日本人は明治維新に成功した。彼らにできて、われわれにできないはずはない。」
「その覚悟ができたら、次は自分なりに考えて第一歩を踏み出すのです。」


護憲改憲言っている場合ではない、憲法を知って、本邦につき憲法も近代もそもそも死んでいるという現状認識と、その先を考え実現するのは自分たちなのだというリアリティを肌身に刷り込むことが本書の目的であろう。

改めて目を通してみて、およそ目的を達しうる内容である。

2008年6月24日 22:57

運動とともに。

実家の明日香から王寺町に越してきて、数年ほど経過した約一年半ほど前から、近所のフィットネスクラブに通うようになった。運動不足を痛感するからである。

とはいえ昔から運動は好きで、また大得意で、それも手伝って学生時代を終えて本格的な運動から去った後は、早朝の散歩をしたり、ダンベルを使って筋力トレーニングをしたり、それなりに体を動かしてはいた。

しかしまあ自分で仕事をするようになると、時間管理が容易くなり、その他に割り振られる時間も次第に増えるような想像とはまったく異なった形で、実はどうにも進んで体を動かすのが精神的に負担となり、それがそれほど広くない自宅賃貸マンションで汗を流すとなるとなおさらであり、そんな次第でフィットネスクラブに通うようになったのである。

前置きが長くなったが、朝の散歩をしたり、フィットネスで体を動かしたりする時間はもったいない。いや、運動に割り振る時間がもったいないのではなく、その比較的長時間となる時間を、体を動かすのみで、頭を放置しがちであることがもったいない。よって、カセットや、CDや、最近はアイポッドなどというポータブルプレイヤーを携帯して、常時かけっぱなしにしている。

音楽は聴かない。いやたまには聴くが、ほぼ聴かない。では何をしているかというと、情報を得ているのである。新しい情報を得たり、旧知の情報を確認したりして、色々な物事に対する視点を広くもったり、自分なりの考え方や立ち位置を整理しているのである。結構本気でやっている。

なんだそりゃと思われるかもしれないが、私にとっては非常に大切な時間。運動が楽になるという副次的動機はもちろん満たされるし、何よりも以下において有意義である。

つまり、日常の生活というのは、とりわけ職業生活というのは実務であり、実践であり、きわめて実際的なものなのであり、そして時に試合であり、闘争であり、戦争である。いかに喜びの深い、ゆったりとした、また慣れ親しんだ仕事であったとしても、仕事である限りにおいて、そういった形相を内在させている。仕事が道楽では困るからである。

日常の生活に必要なのは、即役に立つ情報であり技術であり、いわばよく出来た道具である。よく出来た道具は実際的な生活には必須のものである。

しかし、よく出来た道具を日々使用していると、道具を収集したり、道具の細部に興味が入り浸ったり、道具それ自体に価値があるような気がして、自己目的化する流れは、案外世間的にはよく見られる潮流である。それでこそよく出来た道具はなおさら研ぎ澄まされることがあるのだし、そういった世界が必要であるとこを否定するものではないが、それだけでは危険だし、何よりもつまらない。

道具は何のためにあるか。何を実現したいのか。ほかに至る方法はないのか。あらゆる道具が人間の幸せのためにあるとすれば、常に源流に遡って、目的に、位置づけに、大局に、哲学に、それぞれに振り返り続ける努力が必要なのではないか、そう考えるのである。

そこで、である。実際的な日常を離れて、そういった人生の本源的・根源的な、先天的なところに立ち戻る機会を提供してくれるのがこの時間なのである(文学書や哲学書を読む時間に加えて)。どうやって?それはそういった素材を聴くことによって。

さて、現在よく聴いているのは次のようなものである。

1 伊藤洋一の「ビジネストレンド」「ラウンドアップワールドナウ」のpodcasts
住信基礎研究所の伊藤洋一氏が日本の、世界の経済・社会・政治について解説したり主張したりするもの。ロスチャイルド・ロックフェラー的の、グローバルスタンダード的の世界観を、緩やかな形で日本に輸入しようとするとこういった考え方になるのか、という視点で聴いている。
Podcastsはとてもいい。便利である。もっとたくさんの人がやってくれるといい。多少お金を払ってもいい。

2 ソフィアバンク・ラジオ・ステーションのpodcasts(田坂広志氏の部分のみ)
シンクタンク・ソフィアバンクが発信する情報のうち代表者田坂広志氏の哲学的・思想的語り。その当たり前さの奥に潜む凄み、当たり前の論理を紡ぎ出した源泉の深度を感じる。

3 ビデオニュース・ドットコム(とりわけマル激トーク・オン・ディマンド)
ビデオジャーナリストの神保哲生氏と社会学者宮台真司氏が時のテーマに沿ったゲストを交えて議論する。素朴でわかりやすい神保氏と、時に社会学的飛躍をする宮台氏の同居が、訳も無く心地いい。

4 弁護士加藤晋介氏の講義(とりわけ憲法学周辺)
過ぎた日、司法書士試験の勉強と同時に司法試験の勉強をしていた際、辰巳法律研究所という予備校で数十万円分買い込んだ同弁護士講義の教材のうち、とりわけ興味深いのが憲法学や歴史もの(西洋)のそれである。語りも面白いのでたまに聞きたくなる。

5 その他各界の著名人の講話や法話や講演録。
丸呑みはしないが、とても刺激的である。

現代人の時間は非常の忙しさに費消される。年々やることが増えているような気もする。だから、手軽に音源が持ち運べるようになった今、時間を有効活用して、少しでも有意義に生きられたらいいと思う。

以上、数少ないお勧めできる習慣である。

2008年6月20日 16:15

司法書士会より。

今年もそろそろ実質の梅雨が始まったよう。蒸し暑くてたまらない。
その証に、窓からのぞむ空には灰色のはれぼったい雲が垂れ込めていて、あちらこちらには力の無い光がたたずんでいる。

今、司法書士会にいます。当番相談の担当として、このとき、司法書士会で皆さんのご相談に待機しているところです。今日は面談と電話、それぞれの相談を複数件お受けした後、その狭間で、これを書いている次第です。

エアコンの効いた応接室で、モバイルからネットに分け入っていろんな情報を見たり、こうして文章を書いていると、単純には、便利で良くなったものだと思う。

そういった形で一息つく午後には、自分は、ずいぶんと幸せに、恵まれて生きているなあというところに、最後は行き着くものが行き着くのである。

相談を受ける。自分の法律知識や社会的知識、技術、そして実際的なノウハウといったようなものの総体を提供し、それをもって社会に生きさせていただく。

事務所には、有難いことに素直で真面目なスタッフが待機して黙々と仕事をしてくれる。帰る家もある。そこにはよくできた妻とおいしいご飯と、そして万能の子と、それとの悪くない格闘の時間も用意されている。育ちの家には、まだまだ元気な両親もいる。

しばしば訪れるこういったところに想いが行き着く午後に、さあこれから頑張らないといけないと、気持ちが新たになるのである。

窓から見える外の景色がほど暗くとも、内側からそれに抗することは十分可能である。

六月の雨が生活の疲れや汚れを綺麗に洗い流した夏には、そして彼方には、より爽やかな想いが待っていそうなそんな予感がする。

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