映画を観た。アマデウス。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。アマデウスはそのミドルネーム。すなわち、この映画は、若くして没したモーツァルトの後半の人生を描く。ウィーンに住まうようになってからの半生。
この映画、1984年に大ヒットしたらしい。私は1973生まれだから、映画を見る環境も知性も財力も持ち合わせていない頃のもの(大袈裟)。四十代くらいの方ならば、あーあの映画ね、となるのかもしれないが、私にとっては新鮮である。映画華やかなりし頃の作品をリアルタイムにしていない年代の私にとっては、これから初々しく楽しめる作品も多いわけで、それはそれで良いことである。
さて、史実はともかくとして、映画の筋は、ウィーンハプスブルグ家の宮廷音楽家サリオリが、ウィーンに降り立った見紛うことの無い天才、モーツァルトを追憶の中で語るというその語りが、映像となって展開される。
時折宮廷と接触するモーツァルトが、結局のところ宮廷に就職することが適わず、街の音楽家として種々の食い扶持をつないで貧しく生き、反面サリオリは宮廷音楽家としての地位を保存しつづけるのであるが、、、そのサリオリ自身が誰よりも、モーツァルトの才能に気づき、共鳴し、それを畏怖し、打ちのめされ苦しむのである。そう、宮廷にふさわしいのはモーツァルトであると。サリオリは皮肉なことに、自己は才能を持たぬが、才能を見定める能力に人一倍秀でていたのである、、、
この映画の命題は、才能、天賦の才である。
世の中には、天賦の才を持つものがいる。
才能を持たぬが、天賦の才を見定めるものがいる。
そして大多数の、一切を持たざるものがいる。
「才能などなくてもおよそのことはできる」
こういう、これまた命題がある。
嘘ではない。「およそ」のこと、その意味内容はそのものがよって立つ社会によって変わる。日本であれば「およそ」職を得て、毎日のご飯を食べ、寝泊りをする宿をもち、生命身体の危険にさらされることのない生活を送ること、その程度はきっとできる。努力をして、選らばざれば、という条件付ではあるが。
しかし「およそ」ではない領域は毅然として在る。その領域を生きるものは時に想定され時に神の配剤によってこの世に生れ落ちる。
人間は決して平等ではない。生まれもって豊かなものや、生まれついた血統があるように、天賦の才は、それらと同じように顕著な仕方で存在するのだ。
アマデウス・モーツァルト。天賦の才を受けたもの。その光は余りにも強く、あまりにも広く世界を照らすので、それに包まれた同時代の人々は、その光の輝きを、異なりを、他の光と分別し見出すことが出来ないのだ。同時代において貧しい天賦の才は、音楽にも、哲学にも、その他にも後代によってよく知られるところである。
才能は才能故に苦しく、
才能を分別するものは、才能を持たないことに苦しみ、
そして全てを持たざるものは、凡庸な生活に苦しむ。
楽しみは、喜びは、それに対応してそれぞれにある。
「結局人間は、喜びも苦しみも総合的に分配を受けているのだから、自分が定められたステージで、それぞれに一所懸命生きるしかないのだ。それしかないし、それでいいのだ。」
この映画は、華やかなオーストリアの宮廷生活や当時の文化をきらびやかに描いて、躍動感をともなって加速度的に物語りを駆動させながら、また才能という鋭利なモチーフを攻撃的に用いながら、実は一遍を通じて、普遍的でゆったりとした大河のごとく、以上ようなメッセージを提出しているように感じた。














