ホーム 所長BLOG 2008年3月

2008年3月26日 21:01

ミスティ。

エロール・ガーナー。ミスティ。

やはりこれか。

ジャズが現在のように王道を行くでなく、西洋理論と他の世界が融合することによって生じたエネルギーという本来の仕方で輝きを確固とした20世紀半ばの作品。

演奏は熟練期におけるもので、ミスティを中に取り込んだ新しい曲にすら思える。

才能なんてなくたって大抵のことはできるが、この気品、エレガントでノーブルな香り、そんな才能こそは最後に作品に傑作の刻印を押す。こんなやさしい目こそが、作品をして、時代を超えた名作に定位するのだ。

事務所のBGMとして、クラシックやその他を試したけれど、個人的に一番しっくりくるのはピアノジャズ。一枚一枚手元を増やして、場を、心を暖めたい。

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週末に親族旅行で有馬温泉を訪れた。

恥ずかしながら、初めての有馬での「温泉」体験。温泉地のイメージに反して、宿泊地までの道ほどが非常にスムーズなことにびっくり。全行程が二車線ある。狭い道を行き来することなく目的地に達することができるよい環境という印象をもった。

それにしても結構賑わっているのですね。そこそこ事前に申込みをしても、日程調整が難儀な様子で、「いるところにはいる」「あるところにはある」を肌で感じる。古きを知るものに言わせれば、今がどんなかは知らないけれど。

さて、今回の旅行は、私達夫婦と子供、そして双方の両親が参加。総勢七名の小旅行である。メンバーからも推測されるとおり、双方の両親が、孫に面会する一機会を設定するためにあるような旅であり、よって私達夫婦はいわばおまけであり、「なんのことはない」とか「ある意味気楽」とかいうたぐいの旅行である。

この旅行、それはそれで非常に楽しみにしていたものであるが、楽しみにしていたとおりに進行したことはひとつ置いておいて、気になったことだけを少し。

1 高齢社会
 (1) ミクロ
今回のメンバーは団塊の大人が四人に、団塊ジュニアの若輩が二人、そして輝ける希望が一名である。奇跡的な経済成長の軌道は、種々要因を孕んで人口の爆発と収縮という軌道を伴うというが、今ここにそれを実証する。私の双方の両親にとって、孫はいまだに一人だけ。これから増えるだろうが、いかにもスローペース。昔ならば、もっとわいわいしていたんだろう。

 (2) マクロ
今回の宿、お客が皆団塊か、それ以上の世代。温泉という嗜好も多分に影響していると思うが、やはり若い人が非常に少ない。ロビーにおいても、ラウンジにおいても、風景はそのような世代が形作る。日本の、少しだけお金が必要な嗜好の場においては、そのような世代がいよいよ元気である。

それは非常にいいことでないか、頑張ってきた人間には老後をふんだんに楽しんでもらおうではないか、、、、かような楽天的な落ちでは済まされない、ひとつ日本社会の黄昏がそこに射しているような、きっとそんな気がする。

2 社会(文化)の継続性
旅館の窓から、構造物であり、意匠でもある鉄骨の柱を眺めると、塗られて時間が立ち今度は剥がれようとしている塗料が、ひらひらと風をうける。そうだ、上塗りがされていないのだ。

有馬にはいったいいくつの温泉旅館があるのだろう。有馬を訪れるものが、人口増加と、経済成長と、結果としての可処分所得・時間の増加に沿ってどんどんと膨らんだ時代には、それを吸収して利を得ようと、旅館が立つ。建物が建つ。

しかしこれからゆるやかに人口が減少し、人々の経済もおそらく縮小するこの国で、温泉街だけが、永遠の特性を保持できる理由はない。現在において建物のメンテナンスに費用をさけない多くの旅館は、将来において経営そのものに人的・物的資源を供給することができず、そしておそらくは建物の処分にすらエネルギーは供給されずにその行く末は定かでない。この頃、大阪市内で古びたオフィスビルや老朽化した区分所有のマンションを眺めて思われる同じ不安ともののあわれが、このような「陽のあたる場所」にすら垣間見られたことは、旅行気分を時折現実に引き戻すに充分であった。

不必要に大きな体は、その維持に自身を悩ませ、ほどなく自壊をする。
爆発は必ず収縮を引き起こす。
永遠の成長など夢見るものではない。永遠の成長など無いのだ。

西洋近代から持ち込まれた永遠の成長神話にそろそろ終章を書き込み、継続可能な物語を日本に綴ろう。

2008年3月15日 00:15

人生訓。

自己の客観化。
自己存在への憂い。
自己の正当性を徹底して疑う。
未来の未確定性への絶対的確信。
世界の複雑性、全体性への洞察。
言行の一致。
大いなる善を謳って局地的な悪を行う矛盾を働かない。
小さな約束を厳守。
青臭い正論を堂々と主張。ただし心に嘘のない正論を。
権威を信じる。しかし権威の前に屈しない。
霊的なるもの、宗教的なるものへの畏怖、信頼。
物事を割り切らないで考え抜く胆力。
しかし時に割り切って進む駆動力。
責任を引き受ける潔さ。
しかし安易な責任の引き受けによって宥恕を請うという傲慢には徹底して抗う。
そしてオプティミズム(楽天・楽観主義、ライプニッツ哲学的な)。


?????

男35歳。近頃、どのように生きるかを考える。延々と思考はめぐる。

言葉はやはり完全でなく、言いたいことを全て表現、伝達することはできない。しかし、おぼろげながらに、どのように進むのがかっこいいのかが見えてきたような気がする。

しかしそれは必ずしも、自分がそのように生きていることを意味しない。いやむしろ、理想の造形は、遥か彼方に霞んですらいるのである。

早く。自分に適用される規範をスムーズな形で心に落とし込まなければならない。

そして何よりも、それを実行して揺るがない程度に自分仕立てに纏わなければならないのである。

一刻も早く。

2008年3月14日 23:55

雛飾り。

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ここ数日暖かい。この季節の変わり目は、単なる温度変化では捉えられない匂いを伴う。

季節の変化。あらゆるものの変化。あるものとあるものの狭間、合流するところには常に何かが宿る。季節の変わり目には、それ独特の匂いを伴って、気持ちに、心に、何かが訪れるような経験をする。それは、あるものが虚脱してふっと楽になったり、反対に闇に落ちたり魔が射したりという仕方で、我々に訪れるのだ。

さてそんな三月。その頭に、またもや帰省した。明日香。

帰省して、古い家に入ると、いつか見た雛飾りがしばらくぶりに備えてあった。一見して、当時の思い出で頭を殴られた感じ。

立派。

決して裕福ではなかったろう。
しかし無理をして、愛情のみを支払いの担保に購入した。

ゆったりとした時間も流れてはいなかっただろう。
子を想う気持ちが時間を相対化してせっせと飾りつけに駆り立てた。
さてどんな思いで。

しかしあえて聞かない。それが親子のルール。これからもほどよく相対するための一線である。いつの日か感謝の全てをとも思うが、そんな日は決して訪れて欲しくないとも思うのである。

もはやクラシックな奏者による聞きなれた古典。

しかしなんだか涙が流れてしまう。まさにこの憧憬、母性や、暖かさや、悲しみや、希望や、湧出するすべてのものは、この曲に固定された人類の記憶か。あまりにも多くの人や時代を魅了してしまう。

憧憬。「憧れ」とはこういうことを言うのか。

この曲が聞こえる度、自分の中の良き部分、良き記憶、良き未来への希望が抽出されるような気がする。イデア的に。
そしてそれは、次の瞬間に、仕事でも家庭でも、人生を貫いてゆっくりと誠実に正しく進むことに導くような、そんなごく個人的な体験を与えてくれる。

我が道を行く奏者が、スタンダードな題材を行う。そんなとき、品格と格調において違うのである。

2008年3月 5日 17:45

信貴山より。

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信貴山の山際から、とてもまぶしい光が差し込んでくる。しかしこの季節には、それもひとつの温かみとして心地よくすらある。

当所は王寺駅南ロータリーに隣接してあり、区画の北西角にあたる。

住宅であれば、日照の観点から、南向きが好まれ、東南角はより好まれる。生活のいろいろから考えても、人間を根源的にさかのぼっても、日常には太陽を求めるから、ごく合理的な判断である。

事務所だとどうか。事務所といっても人間が行動する場所にかわりがないので、やっぱり南向きがいいのかな。

しかし北西角もこんな風に悪くない。

1 朝方はたいてい元気でやる気に満ちている。事務作業の予定を入れる。陽光の射さない青白い事務所で、平静と静かに戯れながら、黙々と仕事ができる。
2 夕刻前には橙の西日が射して、一日の終りを明示的に示唆する。そんな時間か、という具合に光でもってお尻を叩く。仕事がはかどる。
3 夕日は単にロマンティック。
4 いざとなればブラインドも下げるしエアコンも稼動。

ところで夕日が仕舞われるのは先述のとおり信貴山。

過日用あって信貴山寺院を訪れた。これを機会に、信貴山についての歴史の表層を少しだけ紐解いてみた。してみれば、1000年以上もの長きにわたり、この地方の霊的装置として続いてきたことが知られた。

自動車で信貴山に上る。自動車をもってして、エンジンを熱くするほど、下か眺めるのとは一体かなりの相違があり、高いものであった。信貴山とはこれほど高いのか。その高さは、しかし下りの道ほどにおいて実感される。三郷から、王寺、さらに様々に見渡す絶景である。

降りてみて、下から信貴山を見上げると、そして改めて事務所の窓より信貴山を望めば、その信貴山はもはや数日前の信貴山ではなかった。そこに見つめられる信貴山は、薄雲を貫いてそびえる呪鎮の塔のごときもので、霊的であり、より高くあり、清風を吹き降ろすように思われた。まさにこのような仕方でもって、大和の人々に信貴山は眺められ、了解されていたのだろうと確信した。

人間の想いは、景色をも一変させる。

いつかどこかで、こんな話があった(正確でないかもしれない)。阪急の小林一三が、千里ニュータウンの開発をした際、巨大団地に寺社がないことに激怒したとある僧が、「霊的呪鎮をしないところに人を住まわせるとは何事だ」と言ったらしい。対して小林一三は、「それならばあなたが寺を建てなさい」と言って千里山の頂上を与えたと。現在もその僧はそこに在るとか。

小林一三はさすがに大物で、霊性に対する畏怖を持ち合わせていたのだろう。霊性が人間生活のセキュリティーに不可欠で、景色をも一変させることを、小林一三は知っていたに違いない。かくして千里の開発は成功した(現状はいろいろと問題あるだろう、それは知らない)。

次数を落とせばこんな話もある。

英国を旅した女学生が、「わーなんて歴史ある綺麗な町並み」といい、フランスを訪れた男子学生が「やっぱり伝統のある欧州は違うなあ」といったらしい。この学生は、追ってロシアを訪れ、「なんて古ぼけて汚い建物なんだ」と、、、

やはり人間の精神は景色を一変させるらしい。

日本は敗戦をし、他者の発する令によって国家神道は解体され、暖かな原初的神道までもが自制によって減衰し、仏教は生きながらえるも儀礼的な地位に閉じ込められている。私たちの目に、大阪の町並みも、東京の高層ビルも雑踏も、さらには古都すらも、冴えないグレースケールで映るのは、このことと無関係ではない。決して経済成長率が鈍化しているからでも経済格差が広がっているからでもない。霊的統一を欠いた都市計画と、現在におけるその喪失が主因である。

この平成の物質的世界に鮮やかな彩りを復活し、翻って内心に夢や希望や充実を回復するには、どんな形であれ、日本に新たなる霊的なものを創始し、または再構築することが必要であることに疑いがないらしい。

信貴山一つ眺めてもそれが実証される。

2008年3月 5日 17:30

お叱り。

夕刻ご依頼者から事件の進捗についてのお叱りを受ける。関係者にも迷惑をかける。反省した。

総じていえることは、我々はどうしても法律事務の供給者としての眼に慣らされる。

ご依頼者にとって掛け替えのない人生の一大事であることについての想像力は、私にとっての一つ一つの仕事が、いかにしても日々繰り返される業務のひとつであるという歴然とした事実の前に、齟齬し、かすみがちになる。

日常の中で鈍感になり、驕りを生じ、怠惰が襲い、様々な出来事を持ちだして正当化するという、この人間の本源的な欲求に対して、敏感であること、そしてそれにとどまらずいかに敵対し、抗していくかということが、人間の価値を決める。人類普遍のテーゼである。

お叱り。

ふっと我に返ったような気持。言い換えると、感謝せざるを得なないような気がした(さりとて喜びの感情などとは全く違うものであるが)。この気付きもひとつの幸福か。

ご依頼者の不幸から、ある意味での幸せを得るという不謹慎な誤謬を、正しい清流にかえるのは、それは自分しかいないのだと思う。

2008年3月 3日 21:49

方針。ブログについて。

ご無沙汰です。気が付けば今年も三月。しかも今日は三日。可愛い娘のひな祭りを祝う必要ある故、速やかに事務所を後にしよう。

さて、空き時間にネットを巡回していると、ブログにおいて、「更新が遅れました」「忙しくて、、」などという言説が氾濫し、まかりとおっていることを発見する。かくいうこのブログにもそんなことを記した記憶が。

これを要するに、「言い訳」と「一方的な免罪の要請」。
とても醜く、かっこわるく、同時に何の意味もないことを知る。

このブログはそもそも、そのサブタイトルにもあるとおり、不定期更新コラムである。不定期だから、当然毎日更新はしないし、更新についての宣言も約定もない。

別に毎日更新してもいいのだが、言いたいこともないのに無理やり更新する動機もないし、道理も条理もない。だから不定期更新コラム。

しかし、関係者から、更新がとまってますよ、とか、更新してくださいね、などとせっつかれると、なぜか更新しなければならない気になるから不思議だ。ブログが更新されていないと書き手に何かあったのでは、との何とも珍奇な想起が。変な時代だ。

そもそも、毎日更新しなければならないとか、何かの義務を課される、他者に拘束される、そのようなことから逃れて自由になりたい、というのが自由主義の本義である(自己が望んだ場合は別。適度に他者に拘束されることの必要性、またその効用については別論ある)。自由主義社会の只中を生き、このブログのオーナー(少なくともこのブログは自由に処分できる)である自分が、あえて自分を不自由に自縛する必要がどこにあろうか。よって、不定期更新コラムである。

今まで、このブログについて少し窮屈に考えすぎていたような気がする。事務所のブログであるというオフィシャル性に過剰反応していたか。政治的立ち位置はどうか(極度に左右に振れていないか、政党性は滲んでいないか)、思想的スタンスはどうか(哲学的に、宗教的に)、文体はどうか(わかりやすく、よりわかりやすく、丁寧に、より丁寧に叙述を)、、、、等々。

しかし先日より、こういった自由な場は、もっと自由であるべきだと確信する。責任を引き受ければいいのだ。

1 自由に。
2 更新についての言説は封印(かっこわるいから)。
3 ついでに忙しいとの言説も封印(かっこわるいから)。

以上がこの場所のルールだ(ということすら本来規定する必要がない)。

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